「対案を出せ」への正しい対応法


7/19〜20にツイートされた@ynabe39氏の「対案を出せ」に答えなくてよい、という一連の主張を読んだ。「対案を出せ」というのはレトリックだとか、客観性やら価値観やらいろいろな言葉が飛び出していたが、どう好意的に見てもこの主張は、「対案を出せ」と言われても何も答えなくてよい、ということを正当化しているようにしか聞こえない。


ただ、もちろん「対案を出せ」と迫る側にも問題がある。「対案を出せ」という言葉を発する前に、いくつか踏まなければならない手続きがあり、それをすっ飛ばしているからだ。

「対案を出せ」と迫るからには、迫った側は何等かのアイデアを提示している。そのアイデアは、何か現状を変えたい(もしくは今のままだと現状が悪化する)から提示しているものだ。つまり、「Aをすべきだ」というアイデアを提示する際の主張を丁寧に書くと、「〇〇という状況を改善すべきだから、Aをすべきだ」となる。

その主張に反対する側は、大きく分けて二つの観点から反対できる。
1.「〇〇という状況は改善しなくてもよい」
2.「Aというアイデアは〇〇という状況を改善する策として適切でない」

もちろん、主張に反対した側に対し、1から確認するのが筋だ。つまり、「〇〇という状況はそのままでもいいんですね」という形で。もしそれでYesという答えなら、その現状認識の妥当性を議論すればよい。

仮にNoだとした場合、初めて「対案を出せ」と迫ることができる。そして、反対する側も対案を出す必要が出てくる。というより、出さなければ単なる「言いっぱなし」だ。野党のやっていることと変わらない。

つまり、もしあるアイデアに反対して対案を出さないということなら、1の主張をしなければならない。でなければ、議論として成り立たないだろう。


今話題になっている原発の話で考えてみよう。「原発再稼働をする」というアイデアは、以下のように言いかえられる。

「現状では気候条件によって停電リスクが高まる可能性があるので、原発を再稼働すべきだ」(まあ、いつまで稼働するかとかそういう話はあるが、ここでは短期的なところだけで見る)

この主張に反対する場合、
1.現状の停電リスクの可能性を甘受する
2.停電リスクを下げるための対案を出す
のどちらかを主張すべきだ。仮に2の対案を出さないなら、声を大にして(しなくてもよいが)、1の主張、つまり「気候条件による停電リスクは避けられないが、それは我慢しますよ」という主張をしなければならない。それで初めて相手方も、「対案を出せ」というのは無茶振りだということになる。

もちろん、「私たちは既に現状維持という言葉で同じことを言っていますよ」という人がいるかもしれない。もしいたのなら、自分の不明を恥じるばかりだが、少なくとも「原発反対」という声は聞くけれど、「もし停電になっても、原発を動かすくらいならみんなで我慢して乗り切りましょう」という声を耳にしたことはない。こういうところに、ぶっちゃけ言ってしまえば、「ずるさ」を感じる。

こうした耳障りのよい主張だけして、相手が少しでも理解できるような反論をしようとしない一方で、「対案を出せ」という恫喝(まあ一種の恫喝ですな)を、「レトリック」だとか「もともとの価値観が違う」だとか言って貶めるのは、言い訳がましい自己正当化以外の何物でもないと考えるのである。