「最強のクリティカルシンキング・マップ」


最強のクリティカルシンキング・マップ(道田 泰司、日本経済新聞出版)という本を読了した。現在いろいろな分野で使われ、やや混迷しつつある「クリティカルシンキング」を概観しようという一冊である。

最強のクリティカルシンキング・マップ―あなたに合った考え方を見つけよう

最強のクリティカルシンキング・マップ―あなたに合った考え方を見つけよう

本書を読了して、正直違和感が残った。細部にいろいろ違和感があるというならスルーしてもよかったが、根幹となる部分への違和感はスルーしづらいので、その点についてまとめてみることにする。



本書の概要
前述の通り、本書は「クリティカルシンキング」という概念を整理・体系化しようと試みたものである。特にビジネスシーンで「クリティカルシンキング」という言葉が使われるようになって、言葉が一人歩きをしているような印象すら受ける。

そのような中、地道にクリティカルシンキング(批判的思考)を米国での潮流とあわせて研究している方々にとっては、こうした風潮を「なんなんじゃい」と思われるのは十分理解できる。ただ、研究界でもクリティカルシンキングに対していろいろな角度からのアプローチがあり、十分整理しきれていないのが正直なところだと感じる。

こうした状況で、ひとまず現在日本で「クリティカルシンキング」という言葉を使っている分野を概観し、そこでの特徴などを整理・体系化しようというのが本書である(というのが自分の理解)。

本書では、クリティカルシンキング(以下クリシン)を、出版物の状況などから4つに分類し、それぞれ以下のように特徴づけている。
・ビジネス系クリシン:網羅的に状況を捉える
・論理学系クリシン:議論を理解、評価する
・心理学系クリシン:人の情報処理の枠組みを理解する
・哲学系クリシン:クリシンを実現するための姿勢

その上で、様々な状況でそれらがどのように活用されているのかを示す、というのが本書の大まかな構造だ。



本書の根本にある違和感
次に、本書に対する自分の違和感をあげていくことにしよう。本書に対する違和感は、大別すると2つある。ただ、この2つの違和感はいろいろからみ合っていて、必ずしもきれいな切り分けはできていない。


違和感1.自分にあった考え方をみつける?
本書の副題は、「あなたに合った考え方を見つけよう」だ。

本書がクリシンを題材にした書籍だとすれば、当然ここでの「考え方」はクリシンに何らか該当するものだろう。となると、「あなたに合った考え方をみつける」という主張には、「クリシンにはいろいろな考え方がある」という前提があることになる。ここでの「いろいろな考え方」には、二つの捉え方がある。それぞれの捉え方で、「自分に合った考え方を見つける」というフレーズを言いかえると、次のようになるだろう。

A:同じ言葉だけと意味が違う(要は宗派の違いのようなもの)
 →「クリシンって呼ばれているものはいろいろあるみたいだけど、僕にはこれがよさそうかな」
B:クリシンを細分化した中での強調の仕方の違い(要は見ている構成要素の違いのようなもの)
 →「クリシンっていろいろな項目に分かれているけど、僕に使えそうなのはこれかな」

Aというのは正直おかしな発想だ。「クリティカルシンキング」というのは、「自分や他者の思考(結論を導き出すまでの過程)を批判的に振り返り、よりよい結論を導き出す」というもので、それ以上でもそれ以下でもない。Aのパターンを許容するのは、たとえて言えば、いろいろな仏教の宗派が乱立しているのをお釈迦様が見て、「うん、仏教にもいろいろな宗派があるようだが、同じ仏教だからどれを信じてもいいだろう」と言っているようなものだ。

一方、Bはどうだろうか? もちろんクリシンには様々なものから構成されている。本書でも触れているように、「疑ってみる」「広げてみる」「客観的にみる」など様々な考え方がある(おっと、「考え方」という言葉を使ってしまった)。だから、「クリシンには様々な考え方があって、それを自分に合った形で使ってよい」という結論になるのだろうか?

そもそもクリシンで何をしたいのかと言えば、前述の通り自分なり他者なりの思考(結論)を批判的に振り返り、より適切な思考を導き出すことだ。つまり、前述した「考え方」は物事を批判的に振り返ったり、結論を導き出すための手法の一つにすぎない。そのどれか一つだけ選んで使えばよいという話ではないのだ。これが野球だったら「投げるのだけ得意」とか「打つのだけ得意」でも、その道のスペシャリストとして通用するかもしれない。しかし、考えるという場面で「客観的にデータを見るのだけ得意」であっても、それはクリシンを活用しているとは言えないだろう。

こうした点から、クリシンの中にはあなたに合った考え方が存在する、と訴えてしまうのは相当違和感が残るのだ。

補足1:著者は「『クリシンにはいろいろな考え方がある』というのはパターンAでもパターンBでもない。言うなれば、前述整理したような「ビジネス系」「論理学系」「心理学系」「哲学系」という違いのことだ」と主張したいのかもしれない。しかし、この分け方は「考え方」を分類したものではない。それは違和感2で説明する。

補足2:補足1とは別に、「ここで『いろいろある』と言いたかったのは、本書の最後に触れている『どの程度使うかは人によって違うのだから、自分にあった使い方を見つけてほしい』という意味だ」という反論があるかもしれない。しかし、「考え方の違い」と「その考え方を使う程度の違い」は別の話だ。もし使う程度が違って、その最適解は人によって違うということを訴えたいなら、「あなたに合った考え方」という副題は明らかにミスリーディングだ。


違和感2.不自然な分類
繰り返しになるが、本書ではクリシンを次の4つに分類している。
・ビジネス系クリシン
・論理学系クリシン
・心理学系クリシン
・哲学系クリシン

この4つの並べてみて、違和感はないだろうか。そう、「ビジネス系クリシン」は他と少し位置づけが異なるのだ。他の3つは「ある学問分野でクリティカルシンキングと言う場合の該当領域」という位置づけなのに対し、ビジネス系クリシンだけは「ビジネスシーンでの代表的なクリシンの使い方」という位置づけなのだ。もし、位置づけを同じにして並べるのなら、ビジネス系クリシンは「経営学クリシン」とでもして、経営学でクリシンというのはどんなものかをあげていかなければならない(そんなものはないと思うが)。

このあたりのレベル感の違いは著者も気づいていて、途中で他のクリシンとは位置づけが違うというような説明をしている。例えば、図の2−2ではビジネス系クリシンを教育系クリシンや専門系クリシン(これまた謎めいている)と同列に置き、他の3つとは違う位置づけだと説明している。つまり、この時点で著者は、ビジネス系クリシンというのはビジネスシーンという使用場面で特徴的なクリシンであると位置づけているのだ。

ところが、第4章以降で、クリシンが適用される具体的状況を説明する際、論理学や心理学、哲学とまったく同じような言葉の使い方でビジネス系クリシンが登場している。つまり、図2−2の前の段階に戻ってしまっている。

これは、当初の分類を、「現在世の中にあるクリティカルシンキング関連の書籍」をベースに行い、それを引っ張ってしまうからである。先人の業績に素直に従えば、クリティカルシンキング
・知識
・スキル
・態度
であるとされている(Glaser,1941)。これを著者の言葉で言いかえれば、
・知識(結論導出の):論理学系クリシン
・スキル(適切な推論を実現するための):心理学系クリシン
・態度:哲学系クリシン
とでも整理できるだろう。なぜこのようなシンプルな整理でよしとしなかったのだろうか?

結果として、本書では「ビジネス系クリシン」というひどく中途半端な位置づけのカテゴリーが時に姿を変えながらいろいろな場所に顔を出す、という不自然な内容となってしまった。



違和感の根本にあるもの
前にも触れたが、本書の副題は「自分にあった考え方を見つけよう」だ。しかし、最後のくだりを見ると、いろいろあるのは考え方というより、どの程度までクリシンを使うか、という程度問題のように見える(少なくとも、本書では「いろいろな考え方」というレベルまでクリシンの考え方を示していない)。

また、第5章「クリティカルシンキングを広げる」を見てみると、そこで扱っている心理臨床や失敗工学、ファシリテーションなどは、「これらで訴えていることは結局クリシンでやっていることに近い」という、「クリシンの応用例」を説明している。一方、同じ第5章で心理臨床等と同列に扱っているノンフィクションは、「ノンフィクションを読めばクリシン的発想を身に付けることができる」と「クリシンを獲得するための手法」の説明となっている。

いろいろあってよいのは、「考え方」なのか「どの程度までクリシンを使うか」なのか。クリシンを使う場面なのか、クリシンを学ぶ場面なのか。本書ではこのあたりの、必ずしも微妙とは言えない違いをごっちゃにしてしまっている。

こうした説明のブレというか何というかは、とりあえず自分の思ったことをつらつらと書いてみました的なエッセーの類ならよいのだろう。しかし、何かを体系立てようとした書籍、しかもその内容が「考える」ことをテーマにしたものの場合、こうしたブレというのは単なる「気持ち悪さ」以上の印象、つまり体系だっていないのではないか、十分整理しきれていないのではないか、という印象を与えかねない。



おわりに:「ビジネス系クリシン」という落とし穴
なぜ本書が世に出たのか。ここからは想像にすぎないが、あとがきに次のような一文があるところからも、ビジネス書で扱われているクリティカルシンキングをうまく学術的な領域にビルトインしたい、といったところにあるのだろう。

それ(クリティカルシンキングって何だろう)に対して学術的に考察することはできましたが(道田、2003)、今度は、ビジネス書などに書かれているクリティカルシンキングをどう理解したらいいのか、ということが気になっていました。(258ページ)


こうした問題意識を持つことは素晴らしいことだと思うが、そこまでビジネス書で触れているクリシンを買い被る必要はないでしょう、というのが個人的な意見だ。

おそらくビジネス書で「クリティカルシンキング」という言葉を初めて使った「MBAクリティカル・シンキング」に、次のような一節がある。


クリティカル・シンキングに関する書籍は、翻訳本を含め、日本でも何冊か出版されている。認知心理学の研究者が中心となって心理学的な側面からまとめたものや、「思考の罠」(陥りやすい間違い)について簡単にまとめたものなどがある。

そのなかで本書は、経営教育の現場で数多くのビジネスパーソンの思考方法を見てきた筆者が、「ビジネスパーソンが仕事を進めていくうえで役立つように」という観点からまとめたものだ。(11〜12ページ)


これをぶっちゃけで意訳してしまえば、「クリシンという言葉はすでに使われているが、筆者(グロービス)はビジネスパーソンに役立つ思考法という意味で使います」と宣言しているにすぎない。つまり、大枠では「クリティカルシンキング」という言葉からは外れていないが、単にビジネスで有益な考え方を表現したものにすぎない、というのが自然な見方となろう(おまけに、当該箇所の見出しが「グロービスクリティカルシンキング」だったりする)。論理学や心理学、哲学などの分野で研究されているものと比べるほどのものではない、と考えるのが自然だ(断っておくが、だからグロービスのクリシンはダメだ、と言いたいのではない。あれはあれで役に立つだろうし、現にそう考えている人は多数いるのだから)。

にも関わらず、ビジネス系クリシンには何か特別なものがあるのではないか、というのは、深読みというか買い被りしすぎのように感じる。さらに、深読みが高じて、「ビジネス系ロジカルシンキング」という不思議な言葉を生み出すに至ってしまった(ビジネス系ロジカルシンキングがあるなら、別の場面で特有のロジカルシンキングというものがあるのだろうか? そして「ビジネス系」ロジカルシンキングと何か違いでもあるのだろうか??)。ここは冷静に出所を確認しておけばよかったのではないだろうか。



まあ、わかったような顔をしてビジネス書で「クリティカルシンキング」という言葉を使うな、ということなのでしょう・・・。となぜか自虐的に終わる。