「アカデミック・キャピタリズムを超えて」〜基礎科学と応用科学という虚像

「アカデミック・キャピタリズムを超えて」を読了した。さすが、読売・吉野作造賞を受賞しただけのことはある、素晴らしく充実した内容の一冊だった。

本書に関しては、おそらくパトロネッジという観点から見た大学の動向を追ったという点で評価されていると思う。もちろんその部分に関する調査や考察は綿密で、いかに大学がカネと関わってきたのかがよくわかるし、俗世界にどっぷりつかっている大学(特に米国)の姿は新鮮だったり、いささかうんざりしたりもする。

しかし、個人的に興味を持ったのは、そうした大学とカネとの絡みの部分ではなく、「基礎科学と応用科学」という虚像についての指摘だ。


■「基礎科学」の誕生
本書によれば、「基礎科学」という概念が生まれたのは1920〜30年代、舞台はアメリカだったという。当時のアメリカは(今でもそうだが)、どんな研究でも何等かの金銭的利益や精神的利益に結びつかなければならない、という考え方が主流を占めていた。その結果、ヨーロッパでは盛んだったいわゆる「利益に直接結びつかない科学研究」をアメリカに根付かせるのは難しかった(要はカネがこうした科学研究には回ってこなかった)。

このような状況を逆転するために作り出されたのが「基礎科学」という概念だという。こうした概念を生み出すことにより、利益に直接結びつかなくても、次のような説明でその研究の正当性を訴えることができるようになったのである。

科学は純粋な基礎研究であり直接的に社会に役立つものではなくとも、やがては応用的技術へと波及し、企業にとっても一般大衆にとっても、おおいなる利益を生み出す(163ページ)

そして、「基礎研究の推進は、一国の経済政策や科学政策の根幹をなすものだ」という考え方にまで発展する。都合のよいことに、当時は軍事研究への貢献を示しやすい時期でもあった(マンハッタン計画など)。

こうした考え方は、一度生まれてしまえばあとは勝手に人々にすりこまれていく。うまいことに「基礎」「応用」とすみわけができたことで、「どちらか片方を優先」ではなく「どちらとも重要」であることを説明もできた。

今、私たちが暗黙のうちに分類している「基礎科学」「応用科学」は、決して科学的体系から生まれたのではなく、片方側のカネ獲得の方便として生まれたものなのだ。その点から見れば、「基礎研究」「応用研究」という区分けは、「文系」「理系」という区分けと同じように不毛で、思考を停止させるものなのかもしれない。