知っているということ

実際的な関心が支配している領域では、われわれは特定の手段や手続きが特定の望ましい/望ましくない結果をもたらす、という知識で満足する。それがどのように、またなぜ働くのかについてわれわれが知らないという事実、またわれわれがその本質について全く無知であるという事実は、われわれが状況や事物を不都合なく取り扱うことを妨げるものではない。(246-247ページ)

この記述が書かれたのは1946年とのことだが、著者がこう書いた以上の状況に現在がなりつつある、ということを著者本人が知ったらどのようにこの記述を書き換えるだろうか? 私たちが何故動くのか知らないものに囲まれて生活している、そして、その使い方が分かって満足する(しかもわかっている使い方はごく一部)状況にあることを著者が知ったら、上記をどのように修正するだろうか?

自分自身、数多くのものに対して本質を知らずに使って「知っている」と満足している状況にあることに気づき、改めて驚く次第である。いまキーボードをたたいているPCなど、その最たるものだろう。

上記の引用はこの本。

現象学的社会学 (文化人類学叢書)

現象学的社会学 (文化人類学叢書)