「わざ」習得メソッドは企業の人材開発に応用可能か?(2)

前回のエントリーで、わざ的な育成を例えば、選抜された人材を経営者にするために活用するにはいくつか条件があると述べた。その条件をあげてみよう。

・お手本の存在
わざ的な育成での最高のテキストは「お手本」である。つまり、お手本がいなければわざ的な育成を行うことは難しい。この「お手本」は、いわゆるコーチのような存在ではない。みずからがロールモデルとして、その生き様も含め背中で経営者としての像を示せるようでなければならないのだ。そんな存在が果たして存在するか?

・多大なコミットメント
学ぶ側にとっても条件がある。それは多大なコミットメントをするだけの覚悟があるか、ということだ(これは育成を企画する側にも言える)。それはモチベーションという気持ち的なものもあれば、時間的なものも必要になる。(仮にお手本が存在するとして)、そのお手本の一挙手一投足を何ら疑念を持たずに観察し、その意味も考えずにマネをし、曖昧な表現でよしあしを評価される。こうしたことをするだけの意欲があるか。
育成をする場合、必ず受ける側から出る疑問は「何のためにやるのか?」である。わざ的な習得では、もちろんその疑問に対する答えはない。何かをする目的を伝えられることに慣れきった私たちに、そうした疑念をもたずに(もっても自分なりに解消して)ただわざの習得に無心になることができるだろうか?

現業との兼ね合い
わざ的な習得を行う間は、大げさに言えばプライベートも犠牲にしてお手本についていかなければならない。となると、自分の仕事をやっている余裕はない。というか、そんなことをした時点で「わざ」の習得はあきらめざるを得ない。果たして、こんなことを許容できるのだろうか? もちろん、わざの習得にはモノにならないというリスクもはらむ。選抜された人材ならそこそこの実績を残しているはず。そうした人材がいなくなったものとして何年間を過ごし、結果としてモノにならないリスクも抱え込むことができるだろうか?

この条件は、ハードルとしては相当高い。しかし、ハードルが高いからダメですね、というのも芸がない。とはいえ、すぐこんなやり方がいいのでは、というアイデアが出るわけでもない。そこで、どんなやり方があるか、しばらく時間をかけて考えてみることにしたい。