発信者のとるべきスタンスとは  街場のメディア論より

前回エントリーで見た「書棚に自分の見られたい姿」を作り出せる読者を生み出すために、何が必要になるか。内田氏は、それを発信者に求める。そして、内田氏は発信者の著作物に対する価値観にメスを入れている。

そういえば、ちょうどよいタイミングで、読売新聞の「・・通信」に今回のテーマにぴったりかんかんの記述があった。いわく、図書館に寄贈するタイミングをずらして、書籍の著者の著作料の確保をすべき、というものだった。

しかし、この人、街場のメディア論を読んでいるのだろうか? こうした主張に、内田氏はしっかりと批判している。著作物に付加価値を生み出すのが編集者の仕事なら、こうした批判を土台にしたうえでの主張を展開してもらいたい。

内田氏は、こうした主張をまったくのナンセンスと切り捨てている。そうした主張をする人は、「自分の本を読んでもらいたい」人ではなく、「自分の本を買ってもらいたい」人だと断じ、そうした姿勢がナンセンスとしているのだ。つまり、「金は払えないが読みたい人」よりも「読みたくはないが金を払う人」を重視するのが、図書館寄贈拒否のロジックなのだ。

ここから、本書でも白眉の主張が展開される(必ずしも本書のメイン・テーマとは関係ありませんが)。こうした「読みたくはないが金を払う人」は、「あなたの本を読めなくしたいから、今出回っているあなたの本をすべて買い取りたい」という要求を拒否できなくなる、というのだ。そして、この申し出に一瞬でも逡巡するような人はモノを書く資格がないと述べる。

この部分を読んで、正直感動した。まさかこの本でこんなに感動するとは思っていなかったので、さらに感動は大きかった(すみません)。私自身、著述を生計の一部にしている立場として、何を考えるべきなのかが見えてきたような気がした。自分が必要としているのは、自分の発信したものを読もうと思っている人である、と。読んでくれさえすれば、それがどのようなチャネルを経由したのか、つまり書店購入か、ブックオフ購入か、友達から譲ってもらったか、図書館(あるのかな?)で借りたかは、ある意味二の次の話だ。

しかし、仮に自分の発信したものを喜んで読む人が多かったとして、その対価はどこで得ればいいのか? 内田氏のように、自分の著作物の使用をオープンにしても、まわりまわって自分に戻ってくる仕組みが作れた人はよいが、私も含むそうでない多くの人にとっては切実な問題だ。読売の編集者もこの点が気がかりなのだろう。

内田氏によれば、それはあまり心配する必要がないそうだ。ただ、そのロジックは「発信側に実入りがなければ困るのはそれを活用する人。だから、活用する人が対価を支払うはず」というひどく原理的なレベルだが。まあ、大きく捉えれば、現在内田氏が実現しているような、「発信者と受益者がともにメリットを享受できるような仕組み」を作ることになるのだろうが、具体策はわからない(内田氏は、その知名度に加え、扱っているコンテンツがこうした仕組みを回すのに適したものだったという部分が大きいだろう)。おそらく、内田氏的には、こうした仕組みができあがれば、おのずと「よい」読者も生み出されていくとしているようだ。

最後に、内田氏は現在の著作権をめぐる騒動は、結局のところ自分の発信物を商品としてしまったところにあると指摘する。そして、こうした発信物は商品ではないのだ、とも指摘する。ちょうど、医療や教育などのインフラと同様、商品化してしまうと、現在のような状況となってしまうというのだ。では、こうしたものが商品化する、つまり消費者が生まれるとどのような弊害があるのか。これが本書の隠れた主題である(題名にある「メディア」とは、正直あまり重要な話ではないような気がする)。

この消費という行動に対する内田氏の主張は正直非常に悩ましい。これはまた別の機会に。


街場のメディア論 (光文社新書)

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