本棚から見る読み手論  街場のメディア論より

数日前に読了した内田樹氏の「街場のメディア論」は、いろいろ考えさせてくれた一冊だった。特に、
・消費者論
・書き手論
・読み手論
という観点から、考えどころ満載だったと感じる(肝心のメディアの話からかけ離れているが・・・)。今回から、それぞれについての感想を述べてみたい。まずは一番簡単そうな「読み手論」から。

大上段に「読み手論」と言ってみても、本書のどこにもそうしたタイトルがない。第六講の後半の一部だけなのだが、心の中でにやにやしながら読んだ部分である。

そこでは、リアルな書籍が電子書籍に対してもつ優位性として「物体として残ること」を内田氏はあげている。これは、現在主流となっている考え方と真っ向から対立するものである。なんといっても、電子書籍のもつ優位性は、「荷物にならない」とされているからだ。私の部屋もそうだが、本が書棚に収まりきらず、何個かの段ボール箱に詰め込まれている。そのうちの一部は半年程度に一度行われる「ブックオフへの売却」で減っていくのだが、それと同等もしくはそれ以上の書籍が部屋に入り込んでくる。このままいくと、部屋は本で埋め尽くされる・・・。相当大げさだが、電子書籍はこうした不具合を解消してくれる。遠からぬ未来には部屋から本がなくなって、すっきり快適な生活が実現できる・・・。これが電子書籍の大きなデメリットと(自分も)考えていた。

こうした考えを内田氏は一刀両断に切り捨てる。内田氏の言っていることを勝手に翻訳すれば「本は、本棚に並んで初めて意味がある」ということになる。なぜだろうか?

まず、こういってしまえば身もふたもない話だが、書籍というのは必ずしもそのコンテンツが自分で消化されていないし、その必要もない、と内田氏は主張する。これは結構勇気のある主張である。世の中、「買った本は自分のものにしましょう!」「本に書かれたことを吸収してもとがとれるんです!」などと白々しい主張をもっともらしく述べる人がいるが、そんなことは現実的でないし、その必要もない、と内田氏は主張しているのだ。昨今の「効率的に」という通念とはかけ離れた書籍の捉え方である。

では、手元にある書籍、つまり書棚に並んでいる書籍とはどんなものか? それは、「将来なりたい自分」を先取りした姿なのだ(もう少し正確に言えば、「いつかなりたいと夢見ている自分」となろう)。

このあたりは、「あまり触れられたくないけど、確かにそうなんだよね・・・」という心理をくすぐる箇所である。恥ずかしながらわが身を振り返ってみても、内田氏の指摘にばっちりあてはまるケースが多い。読んだ本の半分近くは「今はわからないけど、いつかは・・・」というものである。そして、悔しいことに、そうした本が書棚の、しかも自分の一番目につくところに並ぶのだ。恥をしのんで自分の例で言えば、オースティンやポール・グライス、ジョンソン・レアードの「メンタル・モデル」、ハーバード・サイモンなどが(当分読みもしないのに)書棚の最前面に鎮座ましましている。仮に読んだとしても勝間和代の本は書棚にのることはなく段ボール箱へ直行になる。これはコンテンツがどうこうという話とは別に(もちろんコンテンツも・・・なんですが)、「こうした書籍に通暁している自分」がいると自分で思いたいからだ。まさに知的アイデンティティ(というか知的あるべき姿)を体現しているのが書棚だからだ。

こうした点をさらに踏み込んで考えてみると、書棚(つまりリアルな書籍)は、自分の考え方や知識のよりどころを再確認する場としても機能していることがわかる。私の書棚は少し奥行があって、ハードカバーでも前と奥に置くことができる。では、どの本を前に出してどの本を奥に引っ込めるか(そして、どの本を段ボールにしまうか)。こうした選択を通じて、自分はどんな考え方をしていて(したくて)どんな知識をよりどころにしている(したい)かを常に把握することができる。これは結構大きい話だ。自分の考える軸がなければ、単に情報に流されるだけになる。そうならないアンカーとして書棚は役に立っているのだろう。

だからリアルの本は必要不可欠なものである。こうした論法は、確かに自分には非常に刺さった。しかし、仮に無意識にでも本(書棚)にこのような役割を期待している人がどれだけいるのだろうか? どのような論法にせよ、こうした層が多いか少ないか、が電子書籍かリアルな書籍かの議論では問題になるのではないか。結局こうした「本で自分のアイデンティティが確立される」層をどうやって増やすかが問題なのだが、内田氏はそのカギは「書き手」側の意識、つまり著作権という考え方にあるとみているようだ。

この話は次のエントリーで。


街場のメディア論 (光文社新書)

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