思考における論理の役割 「論理トレーニング」

野矢茂樹氏の「論理トレーニング」を再び読んだ。前回読んだのは20世紀だったせいか、うろ覚えの部分が多く、新鮮に読めた。

新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)

新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)

非常に示唆深い一冊だ。その中で、特に示唆に富んでいる点を二点考察していきたい。本日は「論理思考」とは。

本書では序論で「論理」と「思考」について書かれている。そして、私たちが普段何気なく使う「論理思考」「ロジカルシンキング」という言葉がもつ違和感を訴えている。

一般に、論理力とはすなわち思考力だと思われているのではないだろうか。「論理思考力」とか「ロジカルシンキング」といった言葉がよく聞かれるように、論理とは思考に関わる力だと思われがちである。だが、そこには誤解がある。論理的な作業が思考をうまく進めるのに役立つというのはたしかだが、論理力は思考力そのものではない。

この箇所については、旧版でも同じ趣旨のことが語られていたと記憶しているが、まさに同感である。「思考」を「何かを生み出す行為」と捉えれば、限定された範囲内での整合性をよりどころとする論理だけでは片手落ちであろう。それでは、特にビジネスにおいて価値のある成果物には結びつかない。

では、思考において論理とはどのような役割を果たすのか、といえば、導き出した成果物の妥当性のチェックである。と野矢氏は指摘する。つまり、なぜ結論は妥当といえるのか、どのような筋道で結論を導き出せるのか、というチェックが論理の主な役割である、と。同時に、私たちが思考して成果物を生み出す際には、論理に基づいた筋道で考えているわけではないし、そうする必要もない、としている。

特にこの後半部は重要である。成果物を生み出す過程とその妥当性を検証し説明できる形に仕立て上げるプロセスは違っていてもよい、という発想はなかなかできない。その結果生じるのが、論理的に結論を導こうとして杓子定規な結論で終わってしまう、間違っていないレベルの結論でとどまってしまう、ということなのだろう。

そして、ここには「論理」という言葉のもつ曖昧さも影響してくる。この言葉の持つ意味が多様であるにも関わらず、平気で「論理的に考えよう」「今のは論理的でない」という表現をしてしまうため、何とかそのような指摘を受けないようにする、という意識が働くと窮屈な発想をしてしまうことになる。(なお、この点に関しては、そのような指摘をする側に大きな問題がある。特に教える場面では、「論理的でない」という言葉は切り札になる。自分の気に入らない、もっと言ってしまえば自分の想定外の回答が出てきて同意できない場合、「論理的でない」と言ってしまえば指摘したことになってしまうからだ)。

つまり、「論理思考」という言葉自体使うことが憚られるものなのである。とある研修で論理思考という言葉を「胡散臭い」と表現した受講者がいたが、その言葉は的を射ている。ここは、「思考」と「論理」とは別物とみなければならない。つまり、「思考」自体(つまり成果物)は価値のあるものか、ということと、「思考に至る論理は的確か」ということ。この二点を混ぜて表現すること自体、人々を誤解に導き、かしこまった考え方を強要するものなのである。

おそらく野矢氏はこのような考えのもと、「論理」と「思考」を結びつけようとしたのではないだろうか。もちろん軸足は「論理」において。但し、そうすると、どうしても超えなければならない(そして超えられない)壁が立ちはだかることになる。それは「言葉のもつ意味」である。この壁に対して、野矢氏は結局あいまいな形で折り合いをつけてしまった、というのが本書を読んだ率直な印象である。具体的な内容については、別エントリーで。