論理と意味

言うまでもないことだが、「論理トレーニング」は、論理力を向上させるためのトレーニングである。著書の中で、広い意味での論理を「言葉と言葉の関係」としていることから、本書は「言葉と言葉の関係を把握し、自分の主張を展開する際にも活用するために必要な能力を鍛えるためのトレーニング本」と言い換えることができるだろう。

ここでややこしくなるのが、「言葉と言葉の関係」には、
・論理関係:集合の関係に見られるような、言葉の意味を介さなくても捉えることができる関係
・意味関係:二つの言葉の意味のつながり
という二つの要素があることだ。

これまで「論理」と名のつく本を読んできてのどた勘で言えば(「・・・の論理」的なものは除く)、いわゆる形式論理の本については「論理関係」メインで(当たり前か)、ビジネス書になればなるほど「意味関係」が入ってくる(ひどいものになると、都合のいいときに「論理」という言葉を持ち出して、あとはほとんど意味関係勝負という本もある)。では、本書はどうだろうか?

個人的な感想をいえば、「論理関係」の部分もあるが、演習の解説になればなるほど「意味関係」に依存しているように思われる。特に、接続に関する章ではほとんど意味関係の把握が鍵となる。例えば、第二章の例題2などは、「すでに」という文章の一部の言葉の意味を鍵にして、文章全体の接続関係を決定している。

その点から考えると、構成的な部分で見ても「意味関係」を重視しているのがわかる(意識的か無意識的か不明)。「接続」「論証」「演繹」「議論を作る」という構成を見ると、広い論理関係から狭い論理関係へ論を進めているのがわかる。しかし、論理関係は広ければ広いほど意味に依存して関係をつかむ割合が増す。

ここで、だから本書は意味関係重視の本だ、ということが言いたいわけではないし、本書の構成を非難したいわけでもない(構成面でよりすっきりする工夫が必要だとは感じるが)。形式論理の世界にとどまっていてはリアリティがわかない。つまりビジネスパーソンや学生という論理を「使いこなす」立場の人にとっては、リアリティのわかない話をされても興味がわかないし、使いこなそうという気にもならない。だからリアリティを増すよう工夫するわけだが、そうすると意味関係で押すことが必要になる、ということだ。

但し、意味関係で押す、ということは蓋然性は下がる。悪い言い方をすれば「もっともらしい意味を作り上げる」ことによって意味関係の妥当性を押すことが必要になるのだ。

そうすると、「論理思考」という以前のエントリーで違和感を覚える表現もあながち悪い表現ではなくなる。狭義の「論理」では思考という成果物を生み出すためのものとしては弱いが、もっともらしい意味を作り上げるということはまさに思考によって可能になる。つまり、論理思考は「言葉の意味関係をもっともらしいものに作り上げて結論を生み出す思考」と言い換えることが可能になるのだろう。

と、普通の人が普通に論理思考という言葉を使えるところにようやく到達した。ただ、ここまでだらだらと書き連ねたことはあながちムダだというわけでもない。その理由については、別途「論理トレーニング」の構成に対する反論も行いながら考えていきたい。