コミュニケーションは大変だ

多分普通に想像するタイトルのイメージと違う意味で使っています。

リクルートのワークス研究所発行の「Works」は好きな雑誌の一つです。様々な識者にインタビューをするだけでなく、編集者自らインタビューの内容を構造化している点で、踏み込んだ内容になっているなと感じるからです。

そのWorksの最新号の特集が「コミュニケーション不全 解消のシナリオ・序章」。これは大胆に来たね、というのが正直な感想です。「コミュニケーション」という言葉だけならまだ対処可能だけど、それに「不全」をくっつけたら人によるブレ幅が大きすぎて対処不能じゃないのか、と。

と思ったら、「はじめに」で早速そのことに触れてました。そりゃそうだよね。

で、各識者のコメントを呼んでいると、まあいろいろなコミュニケーションの捉え方があるんですね、というのが率直な印象。といっても、コミュニケーションの捉え方は二つに大別できそうです。

一つは、「伝達」という側面に絞る考え方。送り手から受け手へ伝達する、というモデルが標準的です。本誌にも同様のモデルが掲載されています。

もう一つは、伝達自体はある意味二の次で、コミュニケーションの結果、信頼感が醸成されるとか人間関係がよくなるとか価値観が共有できるといった、常道面への波及まで考慮に入れる考え方。本誌でも記述がありましたが、「お前部下とコミュニケーションとっているか?」「いや、時間がなくて・・・」というやり取りがその代表でしょうか。

本誌は、次第に後者の方にシフトしていっているようです。でも、そうすると、何でもコミュニケーションが問題になってしまわないのか? 本誌でも「コミュニケーション不全という言葉自体思考停止」という記述が見られますが、個人的には「コミュニケーション」にあまりにも過大な役割や期待を背負わせているから、コミュニケーション不全が思考停止ワードになっているような気がしてならないのです。

そこで、私は「コミュニケーション」君に、こんな風に慰めたくなるのです。

「コミュニケーション君、君も大変だね。」