コミュニケーションは大変だ(続)

一ヶ月ほど前、「コミュニケーションは大変だ」というタイトルでこんなことを書き連ねました。

コミュニケーションという言葉を、私たちは伝達的な意味と人間関係構築的な意味で使い分けています。でも、これってかなり不自然なことではないでしょうか。

まず、伝達的な意味合いでコミュニケーションを使うとき、どんなことが評価されるでしょうか? まあいろいろあるでしょうが、「正確」かつ「効率的」そして「適時」という点が評価されるでしょう。不正確なことを伝えられても困るし、同じことを何度も説明するのはじれったい。そして、「今更そんなこと言うなよ」という世界もあります。

一方、人間関係構築的な意味合いでコミュニケーションを使うとき、どんなことが評価されるでしょうか? これもいろいろあるでしょうが、「じっくり」「本音を語り合う」というところでしょうか。そりゃさらっと人間関係作られても、「これでいいのかな」と思うし、本音で語り合わなければ信頼関係に結びつかないでしょう。

となると、「正確」とか「効率」といった、伝達的な意味合いでの評価ポイントが、人間関係構築的なコミュニケーションの場では反故されてしまっていることがわかります。「正確であることにこしたことはないけれど、まあそんなことより本音をさらけ出したほうがいいじゃん」「緊密さが重要だから、さらっと伝えられると拍子抜けする」「多人数で話をするより、一対一でじっくりとの方がいいよね」とかでしょうか。

これは、「コミュニケーション」にとって、そしてコミュニケーションする人間にとって相当不幸なことだと思います。同じ言葉である意味相反する評価がされる。「コミュニケーションが大事だ」という言葉に素直に従って行動しても、ある場面では誉められ、ある場面では叱られることさえあるのです(極端)。「その場でどちらの意味か判断すればいいじゃん」という意見もあると思いますが、その判断が違ったら悲劇です。

今更遅いですが、コミュニケーションという言葉をどちらかに統一しないと、なかなか「コミュニケーションの問題」というのは解決できないのではないでしょうか。

またオチのない終わり方をしてしまいました・・・。