わざと工作

これまでわざについてあれやこれやと書いてみたが、ふと一冊の本を思い出した。

創るセンス 工作の思考 (集英社新書)

創るセンス 工作の思考 (集英社新書)

この本で触れている部分とわざの世界には、妙に共通する部分があるように感じる。まず、以前にも触れたが、こんな感覚はわざを「習得した」と感じる一つのヒントなのかもしれない。
http://d.hatena.ne.jp/ubukatamasaya/20100409/1270822366

どの程度の誤差が生じるものなのか、1%なのか1割なのか、そのレベルを感覚的に知っていなければならない。(88ページ)

どちらかと言えばネガティブな側面からの捉え方だが、結構現実感のあるわざ習得の姿かもしれない。

そして、「技術のセンス」と題して、筆者は4つほどあげている。それをあげてみよう。

1.うまくいかないのが普通、という悲観
2.トラブルの原因を特定するための試行
3.現場にあるものを利用する応用力
4.最適化を追求する観察眼(100-101ページ)

1の「悲観」は、自分なりにもう少し消化しないと何とも言いようがない。また、2は少し「わざ」の世界から遠いようにも感じる。残りの二つは、結構「わざ」の世界にも共通することではないか。

3で「応用力」としているが、これこそまさに「わざ」の本質ではないだろうか。現場に立ったときに何とかする能力まで含めてわざというのではないか。わざの発揮は実戦そのものであり、実戦で使えるようになってはじめてわざになる。研修等でよく「実践的ですね」という誉め言葉のようなものが使われるが、わざの世界ではナンセンスな発想だろう。

さらに4は、段階的・要素分解的な学習の否定と捉えることができる。「ここができたからOK」という発想はしない、ということだ。全体がOKになってはじめてOKが出るのであって、それまでは「まだまだ」という状態なのだろう。

この3と4を考えてみると、少なくとも自分が知っている範囲で「わざ」を習得するための人材育成は、少なくとも一般企業のレベルでは行われていないのではないか。どんなに実践的な教育でも、段階を踏んだ育成体系にのっとって行われる。段階を踏んだ育成体系とはすなわち「現場」から乖離することを意味するからだ。では、なぜ「わざ」習得的な育成が行われていないのだろうか。ここはもう少し掘り下げていきたい。