わざとは参加であり、対話である

いきなり現時点での考えをまとめようと思ったが、大きな見落としがあった。それは「わざから知る」にある佐伯胖氏の補稿「なぜ、いま「わざ」か」である。

「わざ」から知る (コレクション認知科学)

「わざ」から知る (コレクション認知科学)

ここで佐伯氏は、わざの重要な要素に「参加」があると指摘している。それは、特にわざを「模倣する」場面で顕著である。

模倣というのは、もしかすると、弟子(初心者)が参加しようとする意向の表出にすぎないのではないだろうか(155ページ)

わざを学ぶということは、何かを身につけるという以前に、そのコミュニティに参加することを表明することだ。そこに参加し続けることによってわざは磨かれていく。

そして、より洗練されたわざの磨き方は、「対話」というスタイルになる。つまり、わざを学ぶ場では、師匠(熟達者)からの呼びかけと弟子(初心者)がそれに応えることの応酬が行われている。但し、以前も触れたように、そこでの対話は言語を介してなされない。まさに学ぶものを通じてである。言語はあくまでも対話のイメージを膨らませる材料にすぎない。

そして、対話はわざの水準を継続的に高めていく。

わざを対話と見なすのは、わざを固定化せずに、絶えず変革されていくべきと考えるからである。そこには「完成の域に達する」ということがない。どこまでも問いかけ、相手の「声」に応えようとしていく。したがって。わざの上達とは、結局「対話」の上達にほかならない。(156-157ページ)

このことは、単にわざを学び続ければよいというわけではないだろう。おそらく、参加したコミュニティへ「人生」レベルでコミットすることによってはじめて成立するようなものではないだろうか。

ということで、佐伯氏の論考から、わざを習得するには、そのコミュニティに参加し、人生をかけるくらいの意気込みでコミットすることが必要である、ということがわかる。こうしたわざ習得的な育成をするために求められるものは何か、をようやく考えることができるようになった(かな?)。