仮説思考と将棋


今、将棋の最高位のタイトル戦「竜王戦」が佳境に入っているそうだ。今期の挑戦者は羽生名人で、羽生名人がタイトルをとると、「永世竜王」になり、史上初の「永世七冠」にもなるらしい。本当にすごい人だ。私と羽生名人とは年齢が近いが、近いのは年齢だけですな。渡辺竜王も、20代とは思えない貫禄のある風貌をしていて、これまたすごそう。


閑話休題。仮説思考の例でよくあげられるのが将棋だ。もちろん、将棋では仮説を駆使して指し手を考えていることはまず間違いないし、例として非常にわかりやすい。しかし、その説明の仕方には首をかしげるものが多い。例えば、こんな例だ。

将棋には、ひとつの局面に80通りくらいの指し手の可能性があるが、その80をひとつひとつ、つぶさに検証していくのではなく、まず大部分を捨ててしまう。80のうち77、78については、これまでの経験から、考える必要がないと瞬時に判断し、そして、「これがよさそうだ」と思える2、3手に候補手を絞る。
これはまさに仮説思考だ。
(「仮説思考」32〜33ページ)


上述の引用のとおりに見ると、棋士は常にあらゆる局面ですべて可能な候補手をあげて、そのうちのいくつかに絞ることをしていることになる。

しかし、そんなことは、(少なくとも人間がやる場合は)ありえないだろう。すべての候補手を洗い出す前にいくつかの候補手が浮かび、その検討を行った上で、指し手を決定したり他の手を探すと捉える方が現実的だ。*1

となると、まず考えなければならないのが、いくつかの候補手はどのように浮かんでくるかだ。上述の引用では、あまりにもあっさりと「これまでの経験から」としている。これまたその通りだろうが、すべて「経験」と語られてしまうと身もふたもない。これでは、よい仮説を立てるには経験がすべて、と言っているのと変わらない。

では、どのように仮説を立てているのだろうか。まず言えるのは、いきなり「どんな手が最善か?」を考えるというより、「現状はどんな局面か?」を考えた上で次の手を考えている、ということだ。つまり、仮説を立てるには、まず「どんな局面か?」を考えなければならない。

局面の見方は様々だろう。難解な局面ともなると、プロの棋士でも「先手有利」「後手有利」と意見が分かれることがあるという。それは、局面の見方がいろいろあるからに他ならない。例えば、駒得・駒損という素人でもわかるところからはじまり、陣形・囲いの固さ、駒が働いているか、攻めやすい配置か、受けやすい配置か、などで、局面の見方は大きく変わる。もちろん、今あげた以外の見方もあれば、これらの組み合わせの世界もある。つまり、局面の見方一つとっても膨大なパターンが考えられるのだ。

さらに、「次の一手」だけを考えればよいわけではない。一般に棋士は十数手先まで読む、というように、現局面だけを見ているわけではない。この手を指したら十数手先はどんな局面になるか、そしてそれはどのように捉えることができるかを考える。

こうして、棋士は様々な角度から現局面(及び想定される数手先の局面)を捉える。次に行うのは、大枠の方針だろう。それは、捉えた局面に応じて決まってくる。単純化して、駒得・駒損という観点だけで局面を捉えた場合、自分は今駒得であるとすれば、「より駒得にしていくにはどのような手がよいか?」「駒得の優位を活かす手は何か?」などの「問い」をたてることになる。この問いも、局面の捉え方でかなり変わってくるだろう。

その上で、出てくるのが、「2、3手の候補手」なのだ。そしてその優劣を比較して、応手が決まってくる。


このように見ると、上述の引用で一言でまとめられている「経験」は、相当程度言語化することが可能だし、言語化することで他の場面でも応用ができるようになることがわかる(例えば、新商品開発などは、その商品をどのような角度で見て、問いに落とし込むかが重要だとわかる)。


以上、将棋を題材にした仮説についてみてきた。ここまでで引き出せることとしては、次の二点だろう。

  • 可能性を捨てるのが仮説思考なのではない。仮説思考は新たな可能性を生み出すことだ
  • 「経験」で終わらせたくなるところに、もっとも重要なワザが潜んでいる。そこを明らかにしなければ、間違ったフォームでの猛練習、そして自己満足に終わってしまう


なお、「状況を多角的に捉える」→「問いをたてる」というくだりは、拙著「仮説思考と分析力」でも詳しく解説しています。ご興味のある方はご一読ください。

*1:この部分は、実際に羽生名人や谷川九段の著書やコメントで上記引用と似た部分のものがある。しかし、実際の対局に対する彼らのコメントを見る限り、彼らはあくまでも「原理的にはその可能性がある」と言っているだけで、現実にはすべての応手を考えているはずはないとみるのが妥当だ。