選択の科学

いろいろな書評で見かける「選択の科学」を昨年末に読了しました。
選択、言い換えれば意思決定に関する本は、それほど山のように存在しますが、「そもそも選択することとは?」という点から掘り下げた本はあまり目にしなかったような気がします。本書はまさに「選択する」ということがどういうことかをわかりやすく解説した一冊だと感じます。また(帯などではこちらがウリのようですが)様々な実験の結果を紹介して、選択がいかに身近なものかを示しています。

本書の内容から逸脱する部分もありますが、自分なりに「選択」ということについて考えてみました。

1.選択=自由
 本書を読んで感じたのは、選択するということと自由とはほぼ同義である、ということでした。特に「○○の自由」というフレーズで使われている「自由」は、まさに選択できることを示しています。「表現の自由」とは、言い換えれば「どんな手段で表現するかを選択することができる」ことに他なりません。このように考えると、近代から現代に至るまでで私たちは様々な自由を獲得したことと、昨日のエントリーで触れたドラッカーの「現代の人の最も大きな変化は、選択する機会が飛躍的に増えたことだ」という言葉と合致するように感じます。


2.選択は違いがわかること
 視点を変えると、選択とは様々な選択肢から何かを選ぶことですから、選択肢の間にある「違い」が見えなければ選択できません。仮に選択したとしても、それは気分次第のもので、結局は選択したことになりません。私たちが選択するためには、選択の機会を得るだけでなく、選択肢間の違いに気付かなければならないのです。

 但し、そのどこに「違い」があるのかにあまり神経質になるのもあまりよいことではないでしょう。例えば、幼児に1円玉から500円玉までを見せて、「ご褒美に好きなものをあげる」と言ったとしましょう。幼児によってはもっとも大きい500円玉を選ぶかもしれないし、穴が空いている5円玉を選ぶかもしれない。それは「違い」の見方であって、どれが正しいというわけではないのです。ここで、「いいか、500円玉が最も価値があるから500円玉を選びなさい」と教えるのは、かえって違いを見る力を損ねてしまうのではないでしょうか。


3.多すぎる選択肢の問題
 本書では、有名な「ジャムの実験」が紹介されています(本書ではじめてこの実験が本書の著者によるものだと知りました)。選択肢が多すぎる場合、私たちは途方に暮れてしまいます。典型的なのは「君の好きにしていいよ」というフレーズで固まってしまうこと。言った本人は押し付けをしたくない気持ちからかもしれませんが、言われた側は選択肢の多さ(と潜在的選択肢を探さなければならない大変さ)に混乱してしまいます。

 本書を読むと、こうした多すぎる選択肢への対応として、必ずしも選択肢の数が問題だとは言っていないようです。むしろ、選択する立場が「自分の求めるもの」をはっきりさせること、そして専門知識を持つことが必要だとしています。

 確かにその通りでしょう。同時に「自分の求めるもの」から選択対象を予めある程度絞り込む能力も必要な気がしています。


4.選択による責任
 本書の後半で、選択のもつ怖さが紹介されます。いわゆる「究極の選択」というやつでしょうか。出産直後から生命維持装置に入った状態の乳児に回復の見込みがないとき、生命維持装置を外す選択を誰がするのがよいか、という重いテーマで本書は解説しています。

 これは結局選択することによる影響の大きさ、責任と選択する行為のもつ充足感とのバランスのことを言っているのだと感じます。確かに選択する機会が多いことはいいことだ。だからより権力をもって選択する機会を多く持ちたい。しかし、その裏にある責任の重さを意識しないと、思いもよらない重圧に悩まされることになる。

 これは、選択する機会をあまりに安易に享受する私たちへの、著者からの「選択の心構え」の言い渡しのように感じます。私たちは日々の選択でも、こうした影響が及ぶことを肝に銘じておかないといけない、というメッセージのように受け取りました。


 選択=意思決定と言うと、私たちはより合理的で自分にメリットのある選択の仕方を学ぼうとしがちです(恥ずかしながら、私もその一人です)。しかし、その前に「選択」というのはどういうメカニズムなのかを考え、理解するのに最適な一冊だと感じました。


選択の科学

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