「わざ言語」徹底解読(1)

わざ言語:感覚の共有を通しての「学び」へ

わざ言語:感覚の共有を通しての「学び」へ


表題の書籍を読み終えて数か月経つ。何とかまとめようと思っていたが、結構なボリュームになるわ、なかなか進まないわで、春に読み終えて夏にエントリというちょっと間延びしてしまった。これから何回になるかわからないが、本書の内容についてじっくり振り返ってみたい。

第一弾は、わざ言語全体の構成について。


 「わざ言語」は、第一部で理論、第二部で第一人者へのインタビューという構成になっている。それぞれの章立てを見ていこう。便宜上、まずは第二部の構成及び語り手を見てみよう。

第一章:「歌舞伎」の「わざ」の継承と学び  中村時蔵(歌舞伎役者)
第二章:しむける言葉・入り込む言葉・誘い出す言葉  佐藤三昭(和太鼓奏者)
第三章:感覚との対話を通した「わざ」の習得  朝原宣治(陸上選手・コーチ)
第四章:スピードスケート指導者が選手とつくりあがる「わざ」世界  結城匡啓(スピードスケート選手・コーチ)
第五章:「生命誕生の場」における感覚の共有  村上明美(母性看護学助産学)

語り手の専門領域をざっくりとわけると、「伝統芸能」「スポーツ」「看護」ということになるだろうか。確かに「わざ」の継承が求められる領域ばかりだ。彼らが、どのようにわざを言語化するのか、わざを言語として伝えるにはどのような条件が必要になっているのかを知るのは、非常に興味深い。また、これら3領域でのわざ伝達の共通点や相違点などがあれば、それも是非知りたいところだ。

と同時に感じるのが、対象として特殊なところに入り込んでいるようなきらいもある。特に伝統芸能とスポーツは
・少人数の伝達
・高いレベルのわざの伝達
という特徴がある。だからこそ効いてくるわざ伝達の手法もあるだろう。わざ言語の活用もそうだ。ビジネスに活かすには、前述した特徴とは逆の
・幅広い対象者への伝達
・最低限のわざの伝達
というところでのポイントも知りたいところだ。そういう意味では「状況に埋め込まれた学習」のような多様性(産婆、仕立屋、総舵手、肉屋、断酒中のアル中患者)もあるとなおよかった。これは次回作(あるのかな)に期待というところか。


一方、第一部の構成は次のようなものだ。

第一章:「わざ」の伝承は何を目指すのか
第二章:熟達化の視点から捉える「わざ言語」の作用
第三章:スポーツ領域における暗黙知習得過程に対する「わざ言語」
第四章:「文字知」と「わざ言語」
第五章:「わざ言語」が促す看護実践の感覚的世界
第六章:看護領域における「わざ言語」が機能する「感覚の共有」の実際
第七章:人が「わざキン」に感染するとき


この構成を見て気付くのが、「伝統芸能に絞って解説する章がない!」ということだ。これはどういうことだろう。もしかしたら、筆者たちの「わざ」の出発点が伝統芸能なのかもしれない。もしそうだとしたら、結構あやうい想定のような気がする。確かに伝統芸能のわざ習得過程に学ぶべきところが多いのは事実だが、それを規範的にしてしまうと他への応用がぐっと狭まるからだ。前述のとおり、「わざ」伝達の場面は多岐にわたるのだから、少なくとも本書でも「伝統芸能」「スポーツ」「看護」を並列にみなすことが望ましい。

こうした「わざ言語」活用領域とは違う観点から見てみよう。活用領域とは違うキーワードと、そこから想定されるテーマを挙げてみると、次のようになる(第一章は総論的な位置づけなので割愛)。

  • 第二章:熟達化→「わざを修得する側」から見たわざ言語の効用
  • 第四章:文字知→「文字」というツールがもつ意味や限界
  • 第六章:感覚の共有→わざ言語と共存する感覚のもつ意味
  • 第七章:「わざキン」への感染→わざが広がるための条件

興味深いことに、「わざを伝達する立場」というテーマからのアプローチに絞った章がない。また、わざ習得の際に必ずといって言及される「コンテキスト」というテーマからのアプローチの章もない。このあたりは、いずれの章でも内包されるからなのだろうが、少なくともコンテキストあたりはそれに絞った記述があるとさらに興味深い。

と、目次だけで長々と書いたが、このあたりから本文についてみていくことにしたい。ここからは各章を順に見ていくことにする。