わざ言語徹底解読(3) 熟達化という観点からわざ言語を見る


第二章 熟達化の視点から捉える「わざ言語」の作用
第二章はわざを教わる側から見ての考察だ。例によって、目次をみてみよう。

1.スキル獲得と「わざ」の習得
2.熟達化から捉える「わざ言語」
3.フロー体験から捉える「わざ言語」

まず、学ぶ側から見て、「スキル」と「わざ」とはどのような違いがあるのか、という点での考察が行われる。単純化してしまえば、「誰かから学ぶ」ということは「ある場における情報のやりとり」となるが、北村氏は「わざ」ではその情報のもつ意味の考察が行われなければならない、とする。そうすると、単純なスキル獲得とわざの習得では、次のような違いが現れる。

この図を見れば明らかなように、スキル習得で求められるのは「効率性」であり、わざ習得では「意味内容の質」となる。ただ、ここではまだ、どのような意味内容を得ることができれば質が高いのか、は見えてきていない。


続いて、本章のメイン・トピックである「熟達化」に進む。ここでは大きく「熟達化体験の構成要素」と「熟達者の知識の扱い方」に分けられる。その前に、本章で取り上げられる熟達者についてもう少し丁寧に解説が加えられている。

熟達者には二種類ある、とよく言われる。
1.手際のよい熟達者
2.適応的熟達者
1はどちらかと言えば、前述の「スキル習得」を十分行った熟達者というイメージ。与えられた手順を手際よくこなす。一方2は本章で取り上げる熟達者の像である。場面場面で最適なやり方を選択する。そうしているうちに独創的なやり方に発展することもある。1を「職人」、2を「名人」と称することもできる。

2についてさらに突っ込んでみると、単に与えられた手順をこなすのにとどまらず、自分の興味関心に応じて熟達化を深化させ、新たな熟達の展開を行う。そこで必要になるのが、
 ・探索:よりよい解をもとめて工夫をし、その効果を確かめる
 ・熟考:自己の状態を絶えずモニターして、適応的に調整する
の二つである。これはこれで納得するのだが、この直後に熟達化体験の構成要素が紹介されている。その中には「探索的思考」という項目が入っているなどダブりもあるので、このあたりはもう少し整理した方がよいような気がする。

続いて、熟達化体験はどのような要素からなるかが紹介されている。細かい部分は本書の43ページをご覧いただくとして、大項目としては、
・没入状態:その世界に入り込むこと
・継続的専心:継続的に向上に向けた努力を続けること
・探索的思考:自分の能力をより高めようとすること
からなる。
このあたりは、インタビューをもとにまとめられただけあって、納得感がある。


そして、熟達者は知識とどのような付き合い方をしているのかが、ブランクフォールド他の研究をもとに解説が行われている。

熟達者の知識に関する原則
1.熟達者は、初心者が気付かないような情報の特徴や有意味なパターンに気付く
2.熟達者は、課題内容に関する多量の知識を獲得しており、それらの知識は課題に関する深い理解を反映する様式で体制化されている
3.熟達者の知識は、個々ばらばらの事実や命題に還元できるものではなく、ある特定の文脈の中で活用されるものである。すなわち、熟達者の知識は、ある特定の状況に「条件づけられた」ものである
4.熟達者はほとんど注意を向けることなく、知識の重要な側面をスムーズに検索することができる
5.熟達者は自分が専門とする分野について深く理解しているが、それを他者にうまく教えることができるとは限らない
6.熟達者が新規な状況に取り組む際の柔軟性には、さまざまなレベルがある

例によって、それぞれ見てみよう。
1については、具体的にどんな情報の特徴や有意味なパターンに気付いているのかが知りたい。本書では、その一つとして「うまくいったときの感覚」に着目している。こういうtaskレベルではなく、achievementレベルでの知識や情報に有意味なパターンがあることに気付くことはかなり重要だろう。実際に、何か行っていても、初心者レベルでは個別のtaskがうまくいくか、どうやればいいかに目が向きがちだが、熟達していくにつて、achievementレベルに目が向くようになる。Achievementレベルの情報や知識そのものに注意がいったり、そこに有意味なパターンがあることに気付くのはとても重要だ。

2について、本書は「知識が体系化されている」と簡単に書いているが、それ以前の「多量の知識を獲得」というところも同様に重要だろう。熟達者になるには、前提として当該分野におけるある程度の知識はもっておかなければならない。不十分な知識が体系化されていても熟達者にとっては意味のないものだろう。

3の文脈依存性は、本書ではAchievementのイメージとのひもづけという意味だろうか。ただ、それでは1とほぼ同じような話になってしまうが。

4については、本書では検索性というところ以上に、「ほとんど注意を向けることなく」という点に注目している。わざを極めた人というと、普通の人ができないところを無意識にできるように感じ、そのような状態になることを目指そうとするが、実際には自分なりに意識していると本書は指摘している(「きわめて意識的に操作された自動化」51ページ)。これはなるほどである。おそらく手際のよい熟達者ならば無意識に自動化されるとよいのだろうが、適応的熟達者はより高い次元へ進みたいという欲求がある。そうなると、自動化してしまうところもさらに改善できると考える。そのためには、自動化しているところも無意識化してしまうのではなく、意識して自動的に動くよう操作するという感覚が必要なのだろう。

5について、本書では「わざ言語」との関連で説明している。熟達者が教えることができるのではない、だからわざ言語が必要になる、という流れだ。ここでもわざ言語はtaskではなくachievementのことであることが見えてくる。自分と同じことができるように教えても熟達しない。だから、うまくいった感覚の共有をすることが熟達への道となる。その媒介をするのがわざ言語、というわけだ。

6は、前述の適応的熟達者のもつ「探索」の話とほぼ同じだろう。その意味で、探索を仕向けるような言葉がわざ言語にもなりうる、という示唆が本書では行われている。ただ、Achievementを伝えるわざ言語とは、少し性質が異なるように感じる。


本書では、こうした考察を踏まえて、熟達者の知識に関する原則から得られる「わざ言語」の示唆を6点あげている。
1.「わざ言語」は、熟達化の過程で本人が「こういうことかな」、「いい感じだな」と気付くための態度や、気付くことができるような状態に導く手がかりを与える。
2.「わざ言語」は、直接的に問題解決を導くのではなく、問題解決の核を導く。
3.「わざ言語」は、必然性をもつ文脈の中で用いられるものである。その文脈とは当人が求める感覚の状態によって想定される。
4.「わざ言語」は、段階を経る中で、自動的な段階へと導く作用力をもつ。ただし、それは単なる自動化された動きを意味するのではなく、感覚が管理された、感覚が上乗せされた自動的な動きを意味する。
5.「わざ言語」は、受け止める人の状態や体験等によって作用力が異なる。したがって、わざを教え学ぶ場では、感覚の共有が重要な意味をもつ。
6.「わざ言語」によって導かれる状態は、最終到達形としてあるのではなく、さらなる洗練が目指される状態である。わざの探究と熟考は継続的に行われていく。

この示唆からさらに得られる示唆?をまとめると、次の3点になるだろう。

示唆1.必ずしもわざ言語でわざができるようになるわけではない。
まあ、当たり前と言ってしまえば当たり前であるが、あまりわざ言語に過度な期待をかけてはいけない。特に、「クリアしなければならないTask」に対して、わざ言語は大きな効果を発揮するわけではない。おそらく、この点に対する誤解から、「わざは体験によって習得できるもので、説明して何とかなるのではない」という主張にもつながっていくのだろう。
わざ言語は、目の前の課題ではなく、より長いスパンでの目標に対して有益である。

示唆2.わざ言語は「媒介」である
わざ言語は目の前の課題をクリアするためのものでなく、長期的な観点で見た目標達成のためのものだとすれば、その本質は何か。それを一言で言えば、「気づきを得るための媒介」になる。
達成すべき目標は明確に与えられない(仮に与えられたとしても、それがどういうものかは人によって異なる)。ではどうやって目標を意識させるかと言えば、それは本人の気づきでしかない。わざ言語は、そうした気づきの媒介となるようなものである。

示唆3.わざ言語は関係性の中で効果が決まる
となると、人によって気づきのレベルが違うのだから、効果を発揮する場合もあればそうでない場合もある。その違いは、「関係性」にある。わざを習得する文脈とわざ言語との関係性、わざを学ぶ側の状態や体験とわざ言語との関係性。こうしたものにより、同じ言葉で伝えても気づきになる場合もそうでない場合もある。


ここまで来ると、結構ビジネスなどどのような場面でも、指導の際に通用する話になってくる。まず、私たちはどうしても個々のタスクを説明して、それをできるようにしようとするが、そうすると同時に、どのような姿を求めているのかを伝える必要がある。ただ、それを単に押し付けるのではなく、学ぶ側の気づきになるような伝え方が必要だ。そして、同じフレーズを使えば誰でも同様の気づきを得るのではなく、教えている場や学ぶ側との関係によって変わるので、どのようなフレーズを使えば気づくのかには十分なケアが必要になる。こんなところだろうか。


なお、本章最後のフローと熟達化の部分は、正直あまり見るところがない。フロー体験の説明と、熟達化の過程でフロー体験があるということが書かれている程度で、それ以上突っ込んだ考察が見られなかった。
そして、第三章へ進む。