わざ言語徹底解読(4)スポーツでのわざの伝達


第三章 スポーツ領域における暗黙知習得過程に対する「わざ言語」の有効性

タイトルどおり、第三章ではスポーツ場面でのわざ言語が対象になる。と言っても、第二章でもかなりスポーツに重点が置かれてから、その続きとも捉えることは可能だ。

この章では、まず動作のコツの習得過程が明らかにされる。これは前章の「熟達化」と近いような近くないような・・・。このあたりが章毎で著者が異なる場合の難しさか。

閑話休題。スポーツ選手の動作のコツは次の三段階となる。
1.動感への気づき
2.動感と指標との対応付け
3.再構築の必要性の認知

最初の段階にある「動感」は聞きなれない言葉だが、「自分の身体を動かしている感覚」という意味だそうだ。動感を捉えることができると、動作が上達する過程における感覚の変化をつかむことができ、上達につながっていく。そして、動感を捉えるためには、「感覚へ意識を向け続ける」ことと「様々な運動経験」の二つが必要だと本書では指摘している。

動感に気付いたら、指標と対応づけるのが次の段階だ。うまくいった感覚を何等かの形で表現できていないと、後で自分は以前うまくいった動感と同じ感覚となっているのかが判断できない。そこで、動作遂行の指標を作る。この指標に決められたものはなく、競技者自身が採用する。

本書ではこの感覚を捉える時の表現の仕方が「わざ言語」化していく、と指摘している。しかし、ここはなんだか違和感がある。ここではスポーツ選手の動作のコツの習得過程を考えているのだから、そこで「わざ言語」をわざわざ持ち出さなくてもよいような気がする。別に「わざ言語」でなければ指標化できないわけではないし。

一応、第二段階まで進むと、あとは動感をよりどころに動作を磨いていくことになる。しかし、ある程度習熟が進むと、以前の動感をうまく導けなくなるときがくる。けがをしてしまったり、(若い選手の場合)身体が成長したり、あとフォームを変更したときも同様だ。この場合に必要なのは、昔の動感にしがみつくのではなく、動作の再構築だ。つまり新たな動感を探すことになる。確かにその通りなのだが、どのタイミングで動作の再構築に踏み切るべきか、というのが難しいところだ。単に調子を落としただけなのか、それとも以前の動作をとりまく構造が変化したためなのか、の判断が難しい。このあたりはまさに「感覚」の世界だから何かを打ち出すのは難しいのだろうが、せっかく「感覚」をテーマに論を進めているのだから、何等か言及してもらえるとよかったように思う。


続いて、本章ではこうした動作習得で「わざ言語」がどのような役割を果たすかを考察している。ここでは主に、初学者と熟達者の二つのカテゴリーに分け、それぞれに「わざ言語」がどのように機能するのかを指摘する。その際の基本的な枠組みは、本章の前半で触れた動作のコツを習得する3つの段階である。

まず、初学者に対しては、「わざ言語」は最初の二つの段階、つまり「動感の気づき」と「動感の指標化」で効果を発揮するとしている。本書の表現を借りれば、「選手の中で動感が一つのまとまりとして想起される」のがわざ言語の役割だ。ここで、わざ言語とはあまり関係ないが、動作のコツ習得の際に重要なポイントが一つ提示される。それは、動感とその指標を結び付ける力として、自己観察力があるということだ。ここはなるほどであるが、わざ言語と自己観察力はどう結びつくのかはよくわからない。わざ言語で自己観察力が高まるのか(それはあまりないか)、自己観察力の程度がいかほどであれ、わざ言語で動感とその指標を結びつくことがサポートされるのか(これはありそう。でもそうすると、あえてここで自己観察力をあげる必要はない)、それともそれ以外なのか。

一方、熟達者にとっては、直接的な感覚の共有にわざ言語は重要な役割を果たす。熟達者は動感やその指標はすでにもっているから、そこを指摘するためにわざ言語を利用する必要はない。第二章の熟達化でも触れているように、より高い水準を目指すために感覚を指導者と共有したい場合にわざ言語が意味をもつ。こうした点はよく理解できる。

加えて、本章の最後では、指導者と競技者との関係構築について触れられている。そこでは、言葉の意味や意図や気づきの共有を通じて、わざ習得に対する価値が一致することが指摘されている。いきなり価値観の共有は難しい。そこでわざ言語のような言葉のもつ意味やそうした表現の意図、さらにそこからの気づきといったところを足掛かりに、価値観を共有していくという流れが必要なのだろう。その意味では、本書でも指摘するように、わざの習得は指導者と競技者の間での知的協力に他ならない。