「わざ言語」徹底解読(5) 文字知とわざ言語


第四章 「文字知」と「わざ言語」
 第四章は、特に分野を限定せずにわざ言語の「言語」としての側面にフォーカスをあてている。実際に取り上げられるのは、宮大工の西岡常一やその弟子小川三夫、和太鼓奏者の佐藤三昭、スピードスケートコーチの結城匡啓などジャンルを問わない。


この章の構成は以下のようなものだ。

1.文字知の陥穽
(1)思考を妨げる文字知
(2)わざとしての思考
(3)宮大工としての思考様式
(4)経験の阻害と確認作業
(5)文字知の陥穽から可能性へ

2.言葉の可能性−陥穽を避ける様々な工夫
(6)陥穽を避ける文字知の工夫
(7)二つのわざ言語の重層的なあり方
(8)わざの世界の内と外
(9)確かな言葉、そして手放される言葉

いきなり「文字知の陥穽」「思考を妨げる文字知」と、「わざ言語」というテーマそのものに駄目だしをするようなタイトルが続いている。このあたりは本文を読むと誤解だとわかるが、なんとなく「○スポ」的な見出しの印象を受ける。


ここで言いたいのは、「わざ習得のプロセスに応じて文字知が効果的な場合もあればそうでない場合もある。特に初期段階に文字知に頼ると危険」ということだ。ここで示されているわざ習得のプロセスは次のようなものだ。

第一段階:わからない状態にさせる
第二段階:我執を捨てる、心を空にする
第三段階:師匠の思考を思考する


この段階で言えば、第三段階までに言葉で教えようとするのは危険だという。それは、言葉で教えることが丸暗記につながり、学習者自らの頭で理解しようとすることにつながるからだという。そうではなく、教える側の思考を読み解くことが最初は必要になる。このあたりは、言いかえれば「わざを習得する時、自分なりに考えてはいけない」ということになろうか。


このような限定があれば、特にわざ習得の後半あたりでは言語は重要な役割を帯びてくる、という流れも自然だ。ここでは、
経験によって見えてきたものを呼び分ける名前(115ページ)
が文字知のもつ機能としている。つまり、身体が知っていたものを、他と区別するために名づける段になると、文字知は有効になるという。それは、教えるとか教わるという段階ではなく、経験を共有してその妥当性を確認する段階で使える言葉だ。


ここら辺はまあなるほどと言えばなるほどだ。しかし、後半和太鼓奏者の佐藤三昭氏のコメントを引き出したあたりから、やや混乱が見られる。佐藤氏は、わざ言語は二種類あるとして、以下のように区別している。
1.あれこれ複雑に言葉を尽くすよりも、一つの言葉ですとんと直ってしまう言葉
2.何かの現象を直すのではなく、自らの対峙によって悩み納得し、そうせざるをえないという質的変化を引き出す言葉


本章で文字知のもつ可能性としてあげてきたのは、上記の区分けでいえば明らかに2だ。では1は?というと、佐藤氏自らこれは入門の初期段階や熟達化前に有効だと指摘している。といことは、わざ習得の段階で文字知が使えるとか使えないという話ではないということになるではないか。このあたりは、なんか余計なものを出して、混乱してしまったなあ、と感じる(混乱しているのは自分?)。



ということで、この章の次から若干テーマが変わる。次の二章は「看護」にフォーカスがあてられている(最後の7章も結局看護の場面が中心だ)。テーマが変わるとやはり少し違った印象を受ける。