わざ言語徹底解読(7) わざキンとは?


第7章 人が「わざキン」に感染するとき
第一部を締めくくるのは、御大佐伯胖氏である。佐伯氏は、第一部全体を締めくくるのかと思ったら、意外にも前章の解読を行っている。それも、「感覚の共有」と難しい言葉を使わずに、「わざキンに感染」という観点から看護におけるわざ伝承・習得を解読している。

特に前章と関係のあるのが、「3わざの感染場−わざが生起し伝承される場」という箇所である。ここはさらに細部に項目立てしている。それぞれで述べていることで重要だと感じたところを簡単に見ていこう。
(1)「感染」によるわざ世界への参入
 佐伯氏は、わざを伝承するとか模倣するとか言っていない。どちらかと言えば、それは「感染」にあたるとしている。つまり、特定の技術だけでなく、その人の姿勢までうつってしまうのだ。だから感染となる。
(2)わざが「伝わる」とは
 わざが伝わった状態を、ここでは「一人前」としている。一人前に達するには、二つの要素が必要になる。
 1.責任をもってそのことに取り組むことができる
 2.自分なりの人間性が感じられる
単に教えたことをできるだけでなく、そこに責任があり、かつ自分という人間性が見えて初めて一人前と言える。
(3)他を「生かす」わざ
 わざというのは、自分がいろいろ発揮できるのが最高の状態ではない。「なにものでもない状態になる」すなわち「徹底して他によって生かされることにすべてゆだねる」状態になるのがわざの境地である。
(4)「いつも通り」の持続
わざを習得したり発揮するときにテンションをあげる必要はない。普段どおりの状態を保つことが必要。
(5)共感的共同リフレクション−「教え」のようで「教え」でない教え
 わざを伝承する側も習得する側も(うつす方もうつされる方も)、気付きを共有しあう場がある。そこでは誰が誰に教えるのではなく、お互いが教え教わる。
(6)「わざ」は「わざ的場」の中での共同的達成
単にわざを習得する人だけが、「わざを習得できた!」と達成感を感じる場ではない。助産婦、妊婦、生まれてくる赤ん坊すべてが達成する場である。

このように自然にわざが感染していく場は、ある意味助産の場特有のものかもしれない。トップアスリートがわざを習得していくときは、関係者が共同的達成感を感じることは難しいかもしれない。伝統芸能を学ぶ際に気付きを共有しあうことは難しいかもしれない。でも、ここにはわざ伝染に関する重要な示唆があるように感じる(まだつかみきれていませんが)。

そして、第一部は佐伯氏の次の言葉で締めくくられる。

「わざ言語」を「わざ言語」として受け止めることも、一種の「わざ」かもしれない。(204ページ)

なんか、わざを習得するというメタスキルっぽい終わり方だが、伝える側と受ける側の感覚がピタッと合う表現をお互い探り合う姿勢は、今までも重要だったし、今後もその重要性が変わるわけではない。


と、第一部だけで延々と続いてしまったので、第二部を取り上げるということはなしにしたい。第一部の解説との絡みで付け加えたいことが出てきたら、そこに反映していきたい。

わざ言語:感覚の共有を通しての「学び」へ

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