「学習の生態学」に見る 学習の常識の破壊

気が付いたら、一年近くほっぽってしまった・・・。
反省。

さて・・・。


先日読了した「学習の生態学」は非常に刺激的な一冊だった。

学習の生態学

学習の生態学

それはなぜか? おそらく、私たちが暗黙のうちに了解している学習観を打ち砕いてくれたからだろう。この本は、いわば「学ぶ」ことに対する常識を打ち破る一冊なのだ。その意味で、本書は(特に第一部は)非常にスリリングである。

まず、著者は第一章で軽くジャブを飛ばす。ここではまだ本題の「学び」ではなく、「インタビュー」という手法に対する常識の破壊である。


■暗黙の了解0.インタビューでは、生の声を聞くことができる?

私たち、とくにビジネスの現場では、インタビューというのは非常に重宝される。数値データはよく目にするものの、それが実態とどうも合わない、そんなときに伝家の宝刀のように持ち出されるのが、「じゃあ、現場の声を聞こう」という言葉だ。このような鶴の一声で、関係者へのヒアリング、インタビューに奔走する人も多いだろう。

しかし、こうしたインタビューから本当に有益な情報が得られるかには、かなり疑ってかかった方がよい、というのが本書での指摘だ。まず、筆者は、インタビューという行為自体、次のような暗黙の前提のうちに成り立っているという。

「我々が求めている情報を、インフォーマント(情報提供者)が何らかの形で明示的に言明化できる」(7ページ)

まあ至極自然な前提だ。しかし、この前提はよく考えてみると、人間とその発話について、相当単純化したモデルをもとにしていることがわかる。そのモデルとは次のようなものだ。

「インフォーマントとは、喋るデータベースのようなもので、ある手続きを踏んでそれにアクセスすれば、自動的に情報が引き出される」(8ページ)


こうしたモデルが成立するには、インフォーマントが情報をまさにデータベースのように自動的にアウトプットできる、ということと、聞き手が情報を適切に引き出すことができる、ということが成立しなければならない。

後者についても相当疑わしいが、本書でメスを入れているのは前者の方だ。つまり、次のような事態が生じがちになる。

「インフォーマントのタイプが限定されてしまうと同時に、そのインフォーマントが生産する解説にのみ、我々の関心が集中してしまいがち」(9ページ)


この指摘に思い当たる経験をした人は多いだろう。思い返してみれば、自分もそんなことが多かったような気がする。話のうまい人へのインタビュー結果は重視する一方、あまり話の得意でない人の話は捨ててしまうことすらある。こうしたことを繰り返して、私たちはインタビューをしながら、偏った情報に踊らされることになっていく。

インフォーマントの問題は、その人のタイプだけにとどまらない。インタビューの内容には、言語化しやすいものとしにくいものがある。そうすると、当然のことながら後者はインタビュー結果から除かれていく。さらに、言語化しやすいものも、さらに簡単にパターン化しようとするため(その方がまとめやすいから)、次第に回答が「非常に穏健で教科書的」なものになると同時に、「実際の方法ではない」やり方を説明することにもなる。

これは、インタビュアーの資質や能力の問題というより、言語を介して情報伝達するという構造に起因する問題であろう。つまり、どんな切れ者のインタビュアーがインタビューをしたとしても、現実に迫ることは難しいのである。その意味で、現場の人の話に絶対的な価値を置くべきではない。


■学習に関する常識(幻想)の破壊

インタビューに関する幻想に軽くジャブを放って、ここから学習に関する常識(幻想)破壊は本格化していく。まずやり玉にあがるのは、「熟達化モデル」だ。


1.段階的な熟達化モデル
段階的な熟達化とは、私たちが当然のように感じているものをモデル化したものだ。つまり、初心者が段階的な訓練を積んで次第に熟達者(専門家)になっていく、というものだ。熟達化の研究は世界各地で行われており、理論家されてもいる。

その熟達化というモデルに対して、筆者は待ったをかける。もちろん、筆者とてどんな状況でも熟達化が成り立たない、とは言わない。それはあまりに自然に感じることだし、それを否定するのはなかなか骨の折れることだ。

筆者が指摘するのは、「環境変化の激しい状況」である。そうした状況では、段階を踏んで次第にスキルがあがっていく、というような悠長なことは言っていられないという。

こうして急速に変化する状況においては、段階的な熟達化はその途中で中断され、最初の段階に引き戻されるというダッチロール的な運動を繰り返すしかないであろう。そしてもし知性的活動が、こうした問題状況の解決のために動員されるとすれば、反省的活動による行為の中断を複雑に、連続的に展開せざるをえないはずである。こうした活動の形式は、ドレファイスがエキスパートとして描いた達人の、ほとんど神業に近いような熟達ぶりとはあまり縁のない、もっとぎくしゃくした自己修正の連続を行為者に要求する。(90ページ)


変化が激しければ、あるスキルを少し身につけたらすぐに別のスキルが要求されて最初の段階に戻ることになる。確かに一定の作業だけすればよいなら段階的に熟達していくことはできるだろうが、途中であれこれ横から口を挟まれたら熟達しようがない。

こうして、私たちのスキルは段階を踏んで向上していって、熟達していくという幻想は打ち砕かれるのである。では、どういう状態なのかと言えば、次のように表現できる。

問題状況化における試行錯誤のぎくしゃくした過程が極めて微細化したため、結果として錯誤が見えない過程(85ページ)


つまり、スキルが向上したというより、試行錯誤の粒がより細かくなったような状態に置かれているのが現実なのだろう。


2.徒弟制という幻影
 画一的なマス教育に対する反動からか、徒弟制的なものに対する期待が大きい。ここでの「画一的なマス教育」は、何も学校教育にとどまらない。いやむしろ、企業内の方が反動が大きいかもしれない。研修をはじめとするOff-JTへの批判や、マニュアルへの批判は、その代替として徒弟制的なものが有力だという主張の裏返しであると言える。また、近年叫ばれている「団塊の世代の退職により、わざが継承されなくなる」という不安も、徒弟制への憧れから来ているものと言ってよいだろう。

徒弟制そのものは、何も近代になって始まったシステムではない。古くからある学習法である。わざわざそうしたシステムを持ち出すこと自体、冷静になって考えてみればおかしな話だという感じがしないでもない。

そうして盛り上がる「わざの伝承」としての徒弟制について、筆者はまずその漠然とした期待感に疑問を投げかける。それは単に、古き良き時代へのノスタルジーではないか、と。

徒弟制を一つの理念的なモデル(Model for)としてみる傾向は、労働経験の衰退と論じる労働過程論の議論の中にも、労働の全体性や徒弟制的全人格性を夢見る論調として潜在している。つまり労働の細分化や技能低下を批判するという論調の裏には、細分化されていなかった時期の労働についてのノスタルジアがある。(96ページ)


さらに、徒弟制は現状の権威を維持する装置であるとも指摘する。従って、徒弟制を復権させることは、組織での権威を維持するのに欠かせないという。


しかし、同時に徒弟制には重要な前提があると指摘する。

徒弟制的な学習をモデルとした理論では、その対象とする領域の周辺に、ある種のセーフティゾーンのようなものがあることを前提としている。(149ページ)


この前提は、前述したノスタルジーを抱く時代の状況と合致する。労働が細分化されていない時代には、その職場にはゆとりがあった。それは生産性が低くなっても対応できる環境であり、ミスをリカバリーできる環境でもある。そうした環境がセーフティゾーンとして機能していたからこそ、徒弟制も成立したのだろう。

しかし、現在の職場では、そう多くのセーフティゾーンは残されていない。極端な例をあげれば、本書で事例としてあげている救命救急センターでは、そのようなセーフティゾーンなど存在しないだろう。そんなものを設ける暇があれば、一人でも命を救う努力をすべきだ、という発想になる。また、一つのミスが生死を分ける世界だ。そのような職場で、徒弟制などと悠長なことは言っていられない。

救命救急センターは極端な例にしても、コスト削減、生産性向上の号令のもと、多くの組織でこうしたセーフティゾーンがなくなっているのが現状だろう。そうなると、徒弟制で育てるというのは、まさに幻想にすぎないのかもしれない。


3.組織化すればするほど学べなくなる
 組織ができあがっていないと、なかなか学ぶ機会が得られない。これは結構常識的な考え方だ。設立直後のベンチャー企業なんかでは、バタバタしていて、学ぶなんてことは二の次になるように感じる。一方、組織がしっかりしてくれば、教育体系もしっかりしたものが出来上がるようにも感じる。

こうした一見常識的な考え方に対しても、筆者は「待った」をかける。むしろ、組織化すればするほど学習が進まなくなるのではないか、と。

学習体制という観点から見れば、前述のように組織化された方が整備されやすいのは確かだ。しかし、学習のネタ、という観点から言えば、組織化されていない状態の時が最も良質な学習材料がそろっていると言える。何しろ、組織としてのバックアップがないのだから、個人は経験し、失敗しながら学習しなければならない。新事業の立ち上げをすれば個人が育つというのは、そうした経験が重要なのでなく、学習の材料が良質だからだ、と言える。

ところが、組織化されていくと、学習の材料の質は下がっていく。それはそうだ。組織としての体裁が整うということは、つまらない失敗をなくすようなバックアップ体制を整えることだからだ。そうすると、学習者はミスしようのない状況に置かれることになる。そこで学習者がいかに学ぼうと努力しても、材料が相当イマイチだから、学習にならない。

まあ、ここで使っている言葉は「組織化」であって、例えば「組織学習」で使う「組織」とは意味合いが異なる。では、今もてはやされている「組織学習」や「学習する組織」と学習の関係はどのようになるだろうか。この点について福島氏は何も述べていないが、是非何等かの形で語ってもらいたいものだ。


■終わりに モデル化する現場を知る必要性

これら3つの幻想破壊に共通することは何だろうか。3つの幻想とも、組織の中で動く人間はダイナミックだが、組織そのものは静態であるという想定のもとモデル化されている点のように感じる。外部環境の変化に対応する組織を想定すれば、熟達化も徒弟制もかなり足元のふらついた状態で行われているものであることがわかる。そして、自らが成熟化していく組織を想定すれば、組織学習は学習する題材が希薄になっていく状態で進められていることもわかる。

従い、今後はこうした組織の変化に応じたモデルを考えていくことも必要なのではないか。例えば、熟達化も業種や職種毎の熟達化というより、忙しさの度合い別や必要とされるスキルの移行度合いの激しさ別での熟達化といったような形で。

もしそんな研究があったら、お目にかかりたいものだ。