特性をもとにした分析

(前回からの続き)

「日本文学史序説」において、特性という考え方がどのように活用されているかを見ていきたい。

日本文学史序説〈上〉 (ちくま学芸文庫)

日本文学史序説〈上〉 (ちくま学芸文庫)

日本文学史序説〈下〉 (ちくま学芸文庫)

日本文学史序説〈下〉 (ちくま学芸文庫)

まずは竹取物語、つまりかぐや姫のお話をどのように分析しているか見ていこう。筆者は竹取物語の特徴を三点あげている。
・表記:漢字かな混じりの文章で書かれ、そこで使われている語彙は大陸文学(当時の中国の漢文だろう)の影響を受けている
・構成:個々のストーリーを面白おかしく語るのではなく、全体において個々のストーリーを位置づけ、関連付けて、物語全体の印象を強くしている
・描写:情景の鋭い観察と手厳しい洞察が見られる
そして、これらの特徴をもって、大陸の文学、ひいては考え方(全体を意識しながら合理的に個々を位置づける)の影響を受けていることを指摘、最終的には中国における考え方が日本の知識人において消化されている、と結論づけている。

この分析では、竹取物語の具体的な内容についてはほとんど触れていない(書籍の中では例示的に触れているが、その内容について論じようとはしていない)。では、何に触れているかといえば、形式的な特性について触れているのみである。驚くべきことは、中身に触れなくても、特性を丁寧に見ていくことで、竹取物語がどのようなものなのかが浮かび上がってくるところである。さらに、特性を見ていくことによって、竹取物語が日本文学、ひいては日本人の思想のどこに位置しているのか、同時に筆者が仮定している日本文学の特徴のどこを補強しているのか、が明確になっているところである。

ここまで見ていくと、「特性」を丁寧に洗う効果を何となくでも感じ取ってもらえるだろうか。


さらに、特性をもとに考えていくと、さらに便利な一面がある。それは「比較」を容易にするということだ。かぐや姫ほどメジャーではないが、道元の「正法眼蔵」についての説明を見ていこう。ここで正法眼蔵の特徴を見るにあたり、空海の「十往心論」を比較対象として、両者は次のように比較している。
言語:空海は漢語、道元は日本語
体系性:空海は体系的、道元は非体系的
記述の特徴:空海は包括的、道元は体験的
構成:空海は抽象的な概念的秩序、道元は抽象と具体の移動

ここまで比較すれば、
空海:中国で修得した自分の考えをそのまま示す
道元:中国で体験したことを自分なりに消化しなおして提示する
という特徴があることは容易に見て取れるだろう。

最終的な結論に至るまでには、両者の特性を比較できるような形で洗い出し、比較する、という作業が必要であることがわかる。

加藤周一自身が特性という概念を明確に意識して本書を書いたかはわからないが、特性を活用することによって、見えてくる幅が多いに広がることはわかっていただけるのではないだろうか。


最後に、少しわき道にそれるが、本書での加藤周一の記述は恐ろしいほどの冴えを見せている。上述したような丁寧な比較もさることながら、そのまとめの簡潔さ、的確さは素晴らしい。例えば、道元日蓮を比較したくだりを見ると、両者は当時の日本権力に迎合していない点では共通しているが、その迎合しないやり方?が明らかに異なると論じる。そして、次のように結論づける。「日蓮は当時の権力を憎悪したが、道元は軽蔑したのである」。「憎悪」と「軽蔑」の一言で、二人の僧が日本権力とどう関わってきたかが手に取るようにわかる。(さらに言えば、続く「猟民の子(日蓮)が、超越的信仰を武器として権力と戦い続けていたとき、天皇の親戚の子(道元)は、そもそも衆愚を相手にしない習慣に従い、山中に退いて、その超越的な思想を知的に洗練した」というくだりはとどめの一撃である)。

ただ、本書のように特性をうまく使いこなすことは難しいようであることを、他の書籍を見ていて感じる。以降では、どのように特性を使いこなせばよいかを具体的な書籍を題材にしつつ考えてみたい。