「地頭」とは

今日も「地頭力を鍛える」を題材に。

地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」

地頭力を鍛える 問題解決に活かす「フェルミ推定」

本書では、題名にもなっている「地頭」を

膨大な情報を選別して付加価値をつけていくという、本当の意味での創造的な「考える力」

と定義し、その本質を「結論から」「全体から」「単純に」考えることとしている。

もちろん地頭という言葉自体十分定着していないものだし(Wikipediaで「地頭」を検索すると、守護・地頭の地頭しかでてこない)、この言葉の捉え方もさまざまあってしかるべきだろう(最初に使い始めたのは高橋俊介氏だが、彼もかなり広い概念で使っている)。

しかし、個人的にはこの定義にやや違和感を感じる。そう感じるのは、おそらくアナロジーとしてあがっている「地肩」との対比からである。

「地肩」という言葉は、「彼は地肩が強いからフォームが悪くてもすごい球を投げる」という風に利用するのが一般的だ。つまり、効果的なやり方を修得していなくても高い成果をあげることができる、ととることができるだろう。同様のことはスポーツではよく起こるだろう。フォームが悪くても走るのが速いとか、蹴り方は滅茶苦茶だがすごくキックしたボールが飛ぶとか。こういった類のものが「地・・」と表現されるべきものであると考える。

一方、本書で言っている地頭の本質(つまり構成要素なので、今後は構成要素と表現する)である「結論から」「全体から」「単純に」というのは、成果物をより早く・より確実に・よりよくするための方法論である。というのは、このやり方をしなくても成果物にたどり着くことは可能だからである。そもそも二項対立的なやり方が地頭というのはおかしい。上記のスポーツの例で、二項対立的になっているものはない。「地」の力なのだから、「より優れている」と表現されるべきだろう。

となると、地頭として定義されるのは何か、といえば個人的にはよりプリミティブな能力であると考える。つまり、難しい問題に対して、スマートなやり方を知らなくても「より難しい問題に対して」「より早く答えを出す」、そして「その力が安定している」というようなものが地頭に該当するのだろう。例をあげるとすれば、例えば計算力。具体的には、
 ・複数桁の四則演算を暗算で行うことができる
 ・四則演算を素早く行うことができる
 ・安定して四則演算の正答を導くことができる(誤答が少ない)
などが該当するだろう。同様の観点で言えば、記号化された形式論理の問題にも同種の力があるといえる。また、国語的観点から言えば、
 ・長い文章の意味を正確に捉えることができる
 ・文章の意味を素早く捉えることができる
という類のものもあげられる。但し、意味の話になると知識的な要素もあがるのでどこまでが地頭かの判別が難しいが。
さらに言えば、
 ・複数のタスクをこなすことができる(正確性、スピード、安定性)
も該当するだろう。

こんな風に書くと拍子抜けするかもしれないが、「地」なのだから本当にプリミティブな部分に目を向けるべきだと考える。

定義はいろいろあると言いながらなぜこんなことを書くか、といえば、危惧しているからである。確かに方法論として「結論から」「全体から」「単純に」というやり方は必要である。但しそれらはあくまでも考え方の一つであって、ベースとなる力があって初めて効果を発揮する。それを、方法論を「地」ですといってしまうと、プリミティブなベースに目を向けないで方法論に走ることとなりかねない。そうすると、うわべだけはわかっているようで中身はすかすか、というものが世の中に氾濫しかねない。

それではまずいのである。せっかく重要なことを提示しているのだから、それを十分に活用してもらわないと困る。本書を読んで方法論だけまねしてうまくいかないとき、たいてい二つのパターンになる。一つは方法論を洗練させていって、わけがわからなくなるパターン。もう一つは「所詮コンサルが考えたことは役に立たない」と放り投げてしまうパターン。両者とも望ましい姿ではない。しっかりと現実として「地」が効いてくることをどこかで示し、方法論を有効に活用できるようになって欲しい、というのが個人的な願いである。