人から「当たり前」と言われたら?

自分の考えていたことが、人から「それって当たり前じゃん」と言われる。これは結構ぐさっとくるものです。自分自身を振り返っても、「当たり前」と言われると、口をつぐんだり、ムキになったりしてしまいます。という反面、それって言いがかりだろうと思うものもあったりします。

そうした「当たり前じゃん」という言葉との付き合い方に悶々としていたところ、本を読んでいたらこんな記述を見かけました。

「当たり前論」は批判者が論理的・内容欠陥を見出せなかった時に、最終兵器(リーサル・ウェポン)として、あるいは苦し紛れに使うことが多い典型的な「批判」の一つといえるもの(「構成構造主義とは何か」p79)

この記述を見たとき、まずは喝采しました。しかし、すぐに戸惑いを覚えたのも事実です。自分には、ここまで言い切れる自信がないからでしょう。

まずは誤解のないように補足しておきますが、この記述の文脈として、ある理論に対して「当たり前」という評価があった場合の反論として取り上げられたものです。つまり領域としては「科学」に該当するもので、確かに科学の理論に関してこうした批判をされた場合の反応の仕方としては妥当なものなのでしょう。この著書の領域は「人間科学」というなかなか捉えがたい領域であるからこうした言われなき批判を浴びるのでしょう。そして、次のような傾向も見られるならなおさらです。

現代の科学は「古人の知恵」あるいは”常識”に回帰している、という大きな傾向が指摘できるように思われる。(「コミュニティを問いなおす」p217-218

確かにこうした傾向があるなら、予め言っておかないとね。

一方、日常生活(含むビジネスシーン)で「当たり前」という評価に対して、上記のスタンスでよいのか? というと、必ずしもそうはならないでしょう。

確かに「当たり前」という評価は主観的なものであり、評価者の線引き次第でいくらでも「当たり前」領域は増えます。評価者が悪意に満ちていれば、何を言われても「それって当たり前だよね」の一言で会話を終わりにすることができる、まさに「リーサル・ウェポン」でしょう。

ただ、こうした評価の恣意性は何に起因するかと言えば、「期待値」に他ならないのでしょう。従い、期待値を超えるような努力をする、ということは日々努力する必要があるのではないか、と考えています。それって、ある意味ビジネスでの「当たり前」の世界でしょう。

とはいえ、なかなか結論そのもので、「なるほどね」「意外だな」と思わせるのは難しい。もちろんそうした評価を受けるだけなら、適当なことを言えばよいのかもしれませんが、裏づけもないのにそういうことを言うと、信用問題です。

そうすると何が肝になるか。一つは、「結論にたどり着くまでのプロセス」にあるのでは、と考えています。山頂は同じだけど、登り方が違う、というやつです。「なるほど、こういう登り方もあったのか!」というところで意外性を打ち出す。これなら、無理やり発想に頼ることもなくなりそうです。もちろん、登り方に興味のある人でなければ通用しませんが。

長々と書きましたが、要は「当たり前」というさみしい評価を避けるために、結論そのもののオリジナリティに加え、結論に至るプロセスのオリジナリティにも注目するとよいのでは、ということです。

これって「当たり前」?

構造構成主義とは何か: 次世代人間科学の原理

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