「わざ」言語

「わざ」から知る (コレクション認知科学)

「わざ」から知る (コレクション認知科学)

「わざ」では言語はどのような役割を果たすのか。「わざの世界だから言葉で表すのは無理だよね」と考えてしまいがちだが、そもそも言語化は可能なのだろうか。

もちろん言語化は可能だ。ただ、それは普通教育などの場面で使う記述言語や科学言語とは異なる、というのが本書での指摘だ。そうした言葉ではなく、比喩的な表現を多用しているというのだ。そして、比喩的な表現は、学習者を当惑の境地へ追いやるという。

その「当惑」にどのような意味があるのかを考えるのに、意外な一冊で参考になる記述があった。

私なりに言い換えるなら、「わざ言語」とは、身体の共振を作り出す言葉である。それまでばらばらだった自分の気分(感情)/動作/身体感覚の間の関係、あるいは自分と他者との間の身体波長のようなものの関係、それが、一つ言葉を与えられた途端、生き生きと共鳴し始める。そういう作用をもつものがわざ言語ではないか。(「音楽の聴き方」65-66ページ)

岡田氏の指摘によれば、「わざ」は心技体が一体となることが最終的な目標となる。そのために、アタマや体で分かったレベルにとどめないことが重要になるのだろう。そのために、あえてアタマや体の単体だけでは理解しにくい比喩的な表現を用いて再度わざのレベルを高める迷路へいざなっているのだろう。

同様の指摘は、別の書籍でも見られる。

世阿弥は「からだでわかった」つもりの後継者たちに、問いと突きつけたのではないか。それによって、からだの感覚を意識化し対象化する。正確には、意識することもできればしないこともできるという二重性、そのために言葉を残した。後継者たちが「自らのからだの感覚」と「文字として突きつけられた理念」との間にズレを感じ、そのズレに駆られて探求を進める。それを願ったのではないか。(「世阿弥の稽古哲学」25ページ)

世阿弥の伝書は必ずしも比喩ばかりではないが、わざを学ぶ際の言葉のもつ力を端的に示しているといえるだろう。

単に言葉「で」教えるのではなく、言葉「も」使って教える。私たちが普段学ぶ際の言葉の使い方とは180度異なる言葉の使い方で、まさに目から鱗である。

「わざ」の話はまだ続く。「世阿弥の稽古哲学」では、わざの習得を弁証的視点で捉えていて、これも非常に興味深い。

音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)

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世阿弥の稽古哲学

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