「実践知」は実践知に迫れたのか?

実践知 -- エキスパートの知性

実践知 -- エキスパートの知性

実践知を読了した。
内容としては、いわゆる学校や研修などで教えられる「学校知」とは異なる、より実践的なものを「実践知」と捉え、様々な職種(といったらいいのか?)でどんな実践知が必要で、どのようにして習得していくのかを解説したものだ。


ここで取り上げられている職種は、
・営業
・管理職
IT技術
・教師
・看護士
・デザイナー
・芸舞妓
・芸術家
の8つで、それぞれ別の人(ほとんど全員研究者)が執筆している。そして、前後は編者である楠見、金井両氏というこの分野の御大による概論解説となっている。


正直なところ、本書の価値は概論解説にはなく(失礼)、個別の職種での実践知に関する考察にあろう。正直なところ、金井先生の部分は熟達化過程での実践知獲得とリーダーシップを無理やり結び付けようとしているがために、話を混乱させるだけな気がしてならない。


個々の職種に関する熟達化の考察については、執筆者の違いもあるのだろうが、示唆深いものもあればそうでもないものもある。個人的に示唆深かったのは「教師」と「看護士」の二つ。この二つに関しては結構実践知に迫れているような気がする。あと、芸舞妓はその存在自体が新鮮だった。他はそれぞれの職種で求められるスキルに関する一般論で終わってしまっているような気がする。


その理由を考えてみると、教師や看護士と他とを大きく分けるポイントとして、「教育」の有無があることに気づく。教師も看護士もその職種に就くための専門の教育を相応のボリューム受け(しかもそれらは均質化された教育過程に基づく)、試験に合格する必要がある。つまり、全員が均質化された学校知を一定水準有していることになる。となると、「学校で教わっている部分だけでは足りないところ」がいわゆる「実践知」ということになる。


一方、残りの職種はどうだろうか? そんな専門的な教育すらない(営業や管理職)職種もあれば、あったとしても均質化されていない(IT技術者、デザイナー、芸術家)ものである。つまり、その職種全員のベースとなる学校知水準が著しく低いもしくは異なるのだ。ということは、その職種に就いた段階から学び始める状態だと言ってよいだろう。結果として、管理職で見られるような一般論的なものを実践知としてしまったり、デザイナーでのように人間関係に偏った考察になったりしてしまうのだろう。つまり、これらの職種は、学校知と実践知を対比させながら実践知とは何かを考えようとすること自体無理があるのだ。


残る芸舞妓は、その中間にあるように感じる。芸舞妓を志望すると、しっかりとした教育を受けることになっているが、それは同時に新入りだけが受けるものでもない。こうしたある意味柔軟な学校知を提供している分、実践知との違いが見えにくくなっているのだろう。



■実践知を解明していくために
個人的にはこうした「実践に近い場面でなければ身につかない能力」には興味をもっていて、是非解明してもらいたいと思っている。本書に関しては、なんか中途半端な終わり方をしてしまったような気がする。それは特に以下の二点に関する注意が欠けているからだと思う。

1.学校知をしっかり把握することが第一歩
このように見ていくと、実践知をクリアにするには、その前に学校知として提供されているものは何かをはっきりさせなければならないことに気づく。つまり、ある職種のエキスパートとなるにはどのような学校知が求められて、それだけでは足りないからどのような実践知が必要なのか、というアプローチをしないと、何でも実践知になってしまう恐れがある。本書の底流にある「エキスパートになるためには学校知だけでは不十分」という主張に反対するつもりはまったくないが、同時に「エキスパートになるには実践知だけでも不十分」という点にも留意しなければ、実践知を解明したことにはならない。

その意味では、学校知が明確になっている教師や看護師が実践知に迫れたように感じたのはわかるような気がする。そうなら、思い切ってまずは学校知が明確な弁護士や会計士などの熟達化を見てみるのも一考かもしれない。


2.職種だけでなく、環境の違いも考慮する必要
それから、本書での研究のアプローチが特定の対象者へのインタビューによるものなので、その点にも違和感を覚えた。福島真人氏が指摘するように、熟達化で重要になるのは、職種の差と同時に、どれだけ他の人からサポートが受けられる環境か、という点も大きいと思う。例えば、看護士についても普通の病院の看護師と救命救急センターの看護士とでは、熟達化の仕方やそこで求められる資質等は違ってくるはずである。その部分を特定の病院の看護師の話だけで一般化してしまうのは、結構大きな見落としなのではないか。

同じ職種内での比較は、営業で自動車販売と不動産販売との比較という形で行っている。こうした比較はどんどんやった方がいいと思う。個人的には何で個人を対象とした高額商品の営業という似通ったものの比較を行っているのかは理解に苦しむが(どうせならB2Bとの比較をすれば熟達化過程や実践を通じてどんな知が得られるかの違いがクリアになるような気がするが)、こうした比較が学校知の解明にもつながるような気がする。

「学習の生態学」に見る 学習の常識の破壊

気が付いたら、一年近くほっぽってしまった・・・。
反省。

さて・・・。


先日読了した「学習の生態学」は非常に刺激的な一冊だった。

学習の生態学

学習の生態学

それはなぜか? おそらく、私たちが暗黙のうちに了解している学習観を打ち砕いてくれたからだろう。この本は、いわば「学ぶ」ことに対する常識を打ち破る一冊なのだ。その意味で、本書は(特に第一部は)非常にスリリングである。

まず、著者は第一章で軽くジャブを飛ばす。ここではまだ本題の「学び」ではなく、「インタビュー」という手法に対する常識の破壊である。


■暗黙の了解0.インタビューでは、生の声を聞くことができる?

私たち、とくにビジネスの現場では、インタビューというのは非常に重宝される。数値データはよく目にするものの、それが実態とどうも合わない、そんなときに伝家の宝刀のように持ち出されるのが、「じゃあ、現場の声を聞こう」という言葉だ。このような鶴の一声で、関係者へのヒアリング、インタビューに奔走する人も多いだろう。

しかし、こうしたインタビューから本当に有益な情報が得られるかには、かなり疑ってかかった方がよい、というのが本書での指摘だ。まず、筆者は、インタビューという行為自体、次のような暗黙の前提のうちに成り立っているという。

「我々が求めている情報を、インフォーマント(情報提供者)が何らかの形で明示的に言明化できる」(7ページ)

まあ至極自然な前提だ。しかし、この前提はよく考えてみると、人間とその発話について、相当単純化したモデルをもとにしていることがわかる。そのモデルとは次のようなものだ。

「インフォーマントとは、喋るデータベースのようなもので、ある手続きを踏んでそれにアクセスすれば、自動的に情報が引き出される」(8ページ)


こうしたモデルが成立するには、インフォーマントが情報をまさにデータベースのように自動的にアウトプットできる、ということと、聞き手が情報を適切に引き出すことができる、ということが成立しなければならない。

後者についても相当疑わしいが、本書でメスを入れているのは前者の方だ。つまり、次のような事態が生じがちになる。

「インフォーマントのタイプが限定されてしまうと同時に、そのインフォーマントが生産する解説にのみ、我々の関心が集中してしまいがち」(9ページ)


この指摘に思い当たる経験をした人は多いだろう。思い返してみれば、自分もそんなことが多かったような気がする。話のうまい人へのインタビュー結果は重視する一方、あまり話の得意でない人の話は捨ててしまうことすらある。こうしたことを繰り返して、私たちはインタビューをしながら、偏った情報に踊らされることになっていく。

インフォーマントの問題は、その人のタイプだけにとどまらない。インタビューの内容には、言語化しやすいものとしにくいものがある。そうすると、当然のことながら後者はインタビュー結果から除かれていく。さらに、言語化しやすいものも、さらに簡単にパターン化しようとするため(その方がまとめやすいから)、次第に回答が「非常に穏健で教科書的」なものになると同時に、「実際の方法ではない」やり方を説明することにもなる。

これは、インタビュアーの資質や能力の問題というより、言語を介して情報伝達するという構造に起因する問題であろう。つまり、どんな切れ者のインタビュアーがインタビューをしたとしても、現実に迫ることは難しいのである。その意味で、現場の人の話に絶対的な価値を置くべきではない。


■学習に関する常識(幻想)の破壊

インタビューに関する幻想に軽くジャブを放って、ここから学習に関する常識(幻想)破壊は本格化していく。まずやり玉にあがるのは、「熟達化モデル」だ。


1.段階的な熟達化モデル
段階的な熟達化とは、私たちが当然のように感じているものをモデル化したものだ。つまり、初心者が段階的な訓練を積んで次第に熟達者(専門家)になっていく、というものだ。熟達化の研究は世界各地で行われており、理論家されてもいる。

その熟達化というモデルに対して、筆者は待ったをかける。もちろん、筆者とてどんな状況でも熟達化が成り立たない、とは言わない。それはあまりに自然に感じることだし、それを否定するのはなかなか骨の折れることだ。

筆者が指摘するのは、「環境変化の激しい状況」である。そうした状況では、段階を踏んで次第にスキルがあがっていく、というような悠長なことは言っていられないという。

こうして急速に変化する状況においては、段階的な熟達化はその途中で中断され、最初の段階に引き戻されるというダッチロール的な運動を繰り返すしかないであろう。そしてもし知性的活動が、こうした問題状況の解決のために動員されるとすれば、反省的活動による行為の中断を複雑に、連続的に展開せざるをえないはずである。こうした活動の形式は、ドレファイスがエキスパートとして描いた達人の、ほとんど神業に近いような熟達ぶりとはあまり縁のない、もっとぎくしゃくした自己修正の連続を行為者に要求する。(90ページ)


変化が激しければ、あるスキルを少し身につけたらすぐに別のスキルが要求されて最初の段階に戻ることになる。確かに一定の作業だけすればよいなら段階的に熟達していくことはできるだろうが、途中であれこれ横から口を挟まれたら熟達しようがない。

こうして、私たちのスキルは段階を踏んで向上していって、熟達していくという幻想は打ち砕かれるのである。では、どういう状態なのかと言えば、次のように表現できる。

問題状況化における試行錯誤のぎくしゃくした過程が極めて微細化したため、結果として錯誤が見えない過程(85ページ)


つまり、スキルが向上したというより、試行錯誤の粒がより細かくなったような状態に置かれているのが現実なのだろう。


2.徒弟制という幻影
 画一的なマス教育に対する反動からか、徒弟制的なものに対する期待が大きい。ここでの「画一的なマス教育」は、何も学校教育にとどまらない。いやむしろ、企業内の方が反動が大きいかもしれない。研修をはじめとするOff-JTへの批判や、マニュアルへの批判は、その代替として徒弟制的なものが有力だという主張の裏返しであると言える。また、近年叫ばれている「団塊の世代の退職により、わざが継承されなくなる」という不安も、徒弟制への憧れから来ているものと言ってよいだろう。

徒弟制そのものは、何も近代になって始まったシステムではない。古くからある学習法である。わざわざそうしたシステムを持ち出すこと自体、冷静になって考えてみればおかしな話だという感じがしないでもない。

そうして盛り上がる「わざの伝承」としての徒弟制について、筆者はまずその漠然とした期待感に疑問を投げかける。それは単に、古き良き時代へのノスタルジーではないか、と。

徒弟制を一つの理念的なモデル(Model for)としてみる傾向は、労働経験の衰退と論じる労働過程論の議論の中にも、労働の全体性や徒弟制的全人格性を夢見る論調として潜在している。つまり労働の細分化や技能低下を批判するという論調の裏には、細分化されていなかった時期の労働についてのノスタルジアがある。(96ページ)


さらに、徒弟制は現状の権威を維持する装置であるとも指摘する。従って、徒弟制を復権させることは、組織での権威を維持するのに欠かせないという。


しかし、同時に徒弟制には重要な前提があると指摘する。

徒弟制的な学習をモデルとした理論では、その対象とする領域の周辺に、ある種のセーフティゾーンのようなものがあることを前提としている。(149ページ)


この前提は、前述したノスタルジーを抱く時代の状況と合致する。労働が細分化されていない時代には、その職場にはゆとりがあった。それは生産性が低くなっても対応できる環境であり、ミスをリカバリーできる環境でもある。そうした環境がセーフティゾーンとして機能していたからこそ、徒弟制も成立したのだろう。

しかし、現在の職場では、そう多くのセーフティゾーンは残されていない。極端な例をあげれば、本書で事例としてあげている救命救急センターでは、そのようなセーフティゾーンなど存在しないだろう。そんなものを設ける暇があれば、一人でも命を救う努力をすべきだ、という発想になる。また、一つのミスが生死を分ける世界だ。そのような職場で、徒弟制などと悠長なことは言っていられない。

救命救急センターは極端な例にしても、コスト削減、生産性向上の号令のもと、多くの組織でこうしたセーフティゾーンがなくなっているのが現状だろう。そうなると、徒弟制で育てるというのは、まさに幻想にすぎないのかもしれない。


3.組織化すればするほど学べなくなる
 組織ができあがっていないと、なかなか学ぶ機会が得られない。これは結構常識的な考え方だ。設立直後のベンチャー企業なんかでは、バタバタしていて、学ぶなんてことは二の次になるように感じる。一方、組織がしっかりしてくれば、教育体系もしっかりしたものが出来上がるようにも感じる。

こうした一見常識的な考え方に対しても、筆者は「待った」をかける。むしろ、組織化すればするほど学習が進まなくなるのではないか、と。

学習体制という観点から見れば、前述のように組織化された方が整備されやすいのは確かだ。しかし、学習のネタ、という観点から言えば、組織化されていない状態の時が最も良質な学習材料がそろっていると言える。何しろ、組織としてのバックアップがないのだから、個人は経験し、失敗しながら学習しなければならない。新事業の立ち上げをすれば個人が育つというのは、そうした経験が重要なのでなく、学習の材料が良質だからだ、と言える。

ところが、組織化されていくと、学習の材料の質は下がっていく。それはそうだ。組織としての体裁が整うということは、つまらない失敗をなくすようなバックアップ体制を整えることだからだ。そうすると、学習者はミスしようのない状況に置かれることになる。そこで学習者がいかに学ぼうと努力しても、材料が相当イマイチだから、学習にならない。

まあ、ここで使っている言葉は「組織化」であって、例えば「組織学習」で使う「組織」とは意味合いが異なる。では、今もてはやされている「組織学習」や「学習する組織」と学習の関係はどのようになるだろうか。この点について福島氏は何も述べていないが、是非何等かの形で語ってもらいたいものだ。


■終わりに モデル化する現場を知る必要性

これら3つの幻想破壊に共通することは何だろうか。3つの幻想とも、組織の中で動く人間はダイナミックだが、組織そのものは静態であるという想定のもとモデル化されている点のように感じる。外部環境の変化に対応する組織を想定すれば、熟達化も徒弟制もかなり足元のふらついた状態で行われているものであることがわかる。そして、自らが成熟化していく組織を想定すれば、組織学習は学習する題材が希薄になっていく状態で進められていることもわかる。

従い、今後はこうした組織の変化に応じたモデルを考えていくことも必要なのではないか。例えば、熟達化も業種や職種毎の熟達化というより、忙しさの度合い別や必要とされるスキルの移行度合いの激しさ別での熟達化といったような形で。

もしそんな研究があったら、お目にかかりたいものだ。

わざ言語徹底解読(7) わざキンとは?


第7章 人が「わざキン」に感染するとき
第一部を締めくくるのは、御大佐伯胖氏である。佐伯氏は、第一部全体を締めくくるのかと思ったら、意外にも前章の解読を行っている。それも、「感覚の共有」と難しい言葉を使わずに、「わざキンに感染」という観点から看護におけるわざ伝承・習得を解読している。

特に前章と関係のあるのが、「3わざの感染場−わざが生起し伝承される場」という箇所である。ここはさらに細部に項目立てしている。それぞれで述べていることで重要だと感じたところを簡単に見ていこう。
(1)「感染」によるわざ世界への参入
 佐伯氏は、わざを伝承するとか模倣するとか言っていない。どちらかと言えば、それは「感染」にあたるとしている。つまり、特定の技術だけでなく、その人の姿勢までうつってしまうのだ。だから感染となる。
(2)わざが「伝わる」とは
 わざが伝わった状態を、ここでは「一人前」としている。一人前に達するには、二つの要素が必要になる。
 1.責任をもってそのことに取り組むことができる
 2.自分なりの人間性が感じられる
単に教えたことをできるだけでなく、そこに責任があり、かつ自分という人間性が見えて初めて一人前と言える。
(3)他を「生かす」わざ
 わざというのは、自分がいろいろ発揮できるのが最高の状態ではない。「なにものでもない状態になる」すなわち「徹底して他によって生かされることにすべてゆだねる」状態になるのがわざの境地である。
(4)「いつも通り」の持続
わざを習得したり発揮するときにテンションをあげる必要はない。普段どおりの状態を保つことが必要。
(5)共感的共同リフレクション−「教え」のようで「教え」でない教え
 わざを伝承する側も習得する側も(うつす方もうつされる方も)、気付きを共有しあう場がある。そこでは誰が誰に教えるのではなく、お互いが教え教わる。
(6)「わざ」は「わざ的場」の中での共同的達成
単にわざを習得する人だけが、「わざを習得できた!」と達成感を感じる場ではない。助産婦、妊婦、生まれてくる赤ん坊すべてが達成する場である。

このように自然にわざが感染していく場は、ある意味助産の場特有のものかもしれない。トップアスリートがわざを習得していくときは、関係者が共同的達成感を感じることは難しいかもしれない。伝統芸能を学ぶ際に気付きを共有しあうことは難しいかもしれない。でも、ここにはわざ伝染に関する重要な示唆があるように感じる(まだつかみきれていませんが)。

そして、第一部は佐伯氏の次の言葉で締めくくられる。

「わざ言語」を「わざ言語」として受け止めることも、一種の「わざ」かもしれない。(204ページ)

なんか、わざを習得するというメタスキルっぽい終わり方だが、伝える側と受ける側の感覚がピタッと合う表現をお互い探り合う姿勢は、今までも重要だったし、今後もその重要性が変わるわけではない。


と、第一部だけで延々と続いてしまったので、第二部を取り上げるということはなしにしたい。第一部の解説との絡みで付け加えたいことが出てきたら、そこに反映していきたい。

わざ言語:感覚の共有を通しての「学び」へ

わざ言語:感覚の共有を通しての「学び」へ

わざ言語徹底解読(6) 看護の世界における「わざ言語」


第5章と第6章の2章は、看護の場面に焦点をあててわざ言語の特徴やわざの伝達についてまとめられている。まずはこの2章の構成を見てみよう。

第5章 「わざ」言語が促す看護実践の感覚的世界
1.看護における「わざ」
2.看護の「わざ」に見る相互主観的世界と<私離れ>
3.「わざ言語」に導かれる看護実践
4.看護学生に留まる「うずく傷」
5.看護の「わざ」を教える・学ぶ
6.非言語的な「わざ言語」

第6章 看護領域における「わざ言語」が機能する「感覚の共有」の実際
1.「わざ言語」に導かれる「感覚の共有」
2.価値を共有する学び
3.仲間と学び合う
4.異質の共同体との出会いにおける看護の再発見

この2章の目次をみると、「感覚」「他者との共有」というところがキー・ワードになるように感じる。もちろん他の章でもこれらの言葉は出てきたが、この2章ほど前面に出てきたことはないと感じる。これは完全な私見だが、その理由はわざ習得における「看護」という領域の特殊性によると感じる。他の「わざ」習得は、ある意味「エキスパート」になるために必要なわざの習得であった。しかし、看護の世界はエキスパートではなく看護学生が一人前の看護士になるために習得するわざが対象になっている。そうなると、言語を使用する部分というより、感覚を共有する、他の人との交流からわざを学ぶ、という部分が大きくなるのではないか。
もちろん、本書でも触れているとおり、看護は「人間が人間に対して働きかける」という特性があり、それも「感覚」「他者との共有」という部分に引き付けられていることはあるだろう。ただ個人的にはそうした部分以上に、わざ伝達の特性に大きな特徴があるように思えるのだ。

その意味で、特に第6章で強調されるのが、「仲間との学び」「現場への参加」などの点である。このあたりは、エキスパートに求められるレベルではない。まず、看護士として一人前になるための初歩と言えば初歩である。
同時に、この2章でわざ言語として指摘されているのが、次の3つである。
 ・比喩的な表現
 ・例示
 ・提示
特に第3章あたりでは突っ込んで考察されていた部分が、結構シンプルにまとめられている。これは、こうしたわざ言語の特徴以上に、それをどうやって活用していくか、という点に焦点があてられているからだろう。
そして、最後には「非言語的なわざ言語」という、わかったようなわからないような表現まで出てくるが、少なくとも本書の文脈ではあまり使わない方がよいような気がする(わざ伝達を非言語的に行うのが難しいから言語を使っていて、それが「わざ言語」だから)。

「わざ言語」徹底解読(5) 文字知とわざ言語


第四章 「文字知」と「わざ言語」
 第四章は、特に分野を限定せずにわざ言語の「言語」としての側面にフォーカスをあてている。実際に取り上げられるのは、宮大工の西岡常一やその弟子小川三夫、和太鼓奏者の佐藤三昭、スピードスケートコーチの結城匡啓などジャンルを問わない。


この章の構成は以下のようなものだ。

1.文字知の陥穽
(1)思考を妨げる文字知
(2)わざとしての思考
(3)宮大工としての思考様式
(4)経験の阻害と確認作業
(5)文字知の陥穽から可能性へ

2.言葉の可能性−陥穽を避ける様々な工夫
(6)陥穽を避ける文字知の工夫
(7)二つのわざ言語の重層的なあり方
(8)わざの世界の内と外
(9)確かな言葉、そして手放される言葉

いきなり「文字知の陥穽」「思考を妨げる文字知」と、「わざ言語」というテーマそのものに駄目だしをするようなタイトルが続いている。このあたりは本文を読むと誤解だとわかるが、なんとなく「○スポ」的な見出しの印象を受ける。


ここで言いたいのは、「わざ習得のプロセスに応じて文字知が効果的な場合もあればそうでない場合もある。特に初期段階に文字知に頼ると危険」ということだ。ここで示されているわざ習得のプロセスは次のようなものだ。

第一段階:わからない状態にさせる
第二段階:我執を捨てる、心を空にする
第三段階:師匠の思考を思考する


この段階で言えば、第三段階までに言葉で教えようとするのは危険だという。それは、言葉で教えることが丸暗記につながり、学習者自らの頭で理解しようとすることにつながるからだという。そうではなく、教える側の思考を読み解くことが最初は必要になる。このあたりは、言いかえれば「わざを習得する時、自分なりに考えてはいけない」ということになろうか。


このような限定があれば、特にわざ習得の後半あたりでは言語は重要な役割を帯びてくる、という流れも自然だ。ここでは、
経験によって見えてきたものを呼び分ける名前(115ページ)
が文字知のもつ機能としている。つまり、身体が知っていたものを、他と区別するために名づける段になると、文字知は有効になるという。それは、教えるとか教わるという段階ではなく、経験を共有してその妥当性を確認する段階で使える言葉だ。


ここら辺はまあなるほどと言えばなるほどだ。しかし、後半和太鼓奏者の佐藤三昭氏のコメントを引き出したあたりから、やや混乱が見られる。佐藤氏は、わざ言語は二種類あるとして、以下のように区別している。
1.あれこれ複雑に言葉を尽くすよりも、一つの言葉ですとんと直ってしまう言葉
2.何かの現象を直すのではなく、自らの対峙によって悩み納得し、そうせざるをえないという質的変化を引き出す言葉


本章で文字知のもつ可能性としてあげてきたのは、上記の区分けでいえば明らかに2だ。では1は?というと、佐藤氏自らこれは入門の初期段階や熟達化前に有効だと指摘している。といことは、わざ習得の段階で文字知が使えるとか使えないという話ではないということになるではないか。このあたりは、なんか余計なものを出して、混乱してしまったなあ、と感じる(混乱しているのは自分?)。



ということで、この章の次から若干テーマが変わる。次の二章は「看護」にフォーカスがあてられている(最後の7章も結局看護の場面が中心だ)。テーマが変わるとやはり少し違った印象を受ける。

わざ言語徹底解読(4)スポーツでのわざの伝達


第三章 スポーツ領域における暗黙知習得過程に対する「わざ言語」の有効性

タイトルどおり、第三章ではスポーツ場面でのわざ言語が対象になる。と言っても、第二章でもかなりスポーツに重点が置かれてから、その続きとも捉えることは可能だ。

この章では、まず動作のコツの習得過程が明らかにされる。これは前章の「熟達化」と近いような近くないような・・・。このあたりが章毎で著者が異なる場合の難しさか。

閑話休題。スポーツ選手の動作のコツは次の三段階となる。
1.動感への気づき
2.動感と指標との対応付け
3.再構築の必要性の認知

最初の段階にある「動感」は聞きなれない言葉だが、「自分の身体を動かしている感覚」という意味だそうだ。動感を捉えることができると、動作が上達する過程における感覚の変化をつかむことができ、上達につながっていく。そして、動感を捉えるためには、「感覚へ意識を向け続ける」ことと「様々な運動経験」の二つが必要だと本書では指摘している。

動感に気付いたら、指標と対応づけるのが次の段階だ。うまくいった感覚を何等かの形で表現できていないと、後で自分は以前うまくいった動感と同じ感覚となっているのかが判断できない。そこで、動作遂行の指標を作る。この指標に決められたものはなく、競技者自身が採用する。

本書ではこの感覚を捉える時の表現の仕方が「わざ言語」化していく、と指摘している。しかし、ここはなんだか違和感がある。ここではスポーツ選手の動作のコツの習得過程を考えているのだから、そこで「わざ言語」をわざわざ持ち出さなくてもよいような気がする。別に「わざ言語」でなければ指標化できないわけではないし。

一応、第二段階まで進むと、あとは動感をよりどころに動作を磨いていくことになる。しかし、ある程度習熟が進むと、以前の動感をうまく導けなくなるときがくる。けがをしてしまったり、(若い選手の場合)身体が成長したり、あとフォームを変更したときも同様だ。この場合に必要なのは、昔の動感にしがみつくのではなく、動作の再構築だ。つまり新たな動感を探すことになる。確かにその通りなのだが、どのタイミングで動作の再構築に踏み切るべきか、というのが難しいところだ。単に調子を落としただけなのか、それとも以前の動作をとりまく構造が変化したためなのか、の判断が難しい。このあたりはまさに「感覚」の世界だから何かを打ち出すのは難しいのだろうが、せっかく「感覚」をテーマに論を進めているのだから、何等か言及してもらえるとよかったように思う。


続いて、本章ではこうした動作習得で「わざ言語」がどのような役割を果たすかを考察している。ここでは主に、初学者と熟達者の二つのカテゴリーに分け、それぞれに「わざ言語」がどのように機能するのかを指摘する。その際の基本的な枠組みは、本章の前半で触れた動作のコツを習得する3つの段階である。

まず、初学者に対しては、「わざ言語」は最初の二つの段階、つまり「動感の気づき」と「動感の指標化」で効果を発揮するとしている。本書の表現を借りれば、「選手の中で動感が一つのまとまりとして想起される」のがわざ言語の役割だ。ここで、わざ言語とはあまり関係ないが、動作のコツ習得の際に重要なポイントが一つ提示される。それは、動感とその指標を結び付ける力として、自己観察力があるということだ。ここはなるほどであるが、わざ言語と自己観察力はどう結びつくのかはよくわからない。わざ言語で自己観察力が高まるのか(それはあまりないか)、自己観察力の程度がいかほどであれ、わざ言語で動感とその指標を結びつくことがサポートされるのか(これはありそう。でもそうすると、あえてここで自己観察力をあげる必要はない)、それともそれ以外なのか。

一方、熟達者にとっては、直接的な感覚の共有にわざ言語は重要な役割を果たす。熟達者は動感やその指標はすでにもっているから、そこを指摘するためにわざ言語を利用する必要はない。第二章の熟達化でも触れているように、より高い水準を目指すために感覚を指導者と共有したい場合にわざ言語が意味をもつ。こうした点はよく理解できる。

加えて、本章の最後では、指導者と競技者との関係構築について触れられている。そこでは、言葉の意味や意図や気づきの共有を通じて、わざ習得に対する価値が一致することが指摘されている。いきなり価値観の共有は難しい。そこでわざ言語のような言葉のもつ意味やそうした表現の意図、さらにそこからの気づきといったところを足掛かりに、価値観を共有していくという流れが必要なのだろう。その意味では、本書でも指摘するように、わざの習得は指導者と競技者の間での知的協力に他ならない。

わざ言語徹底解読(3) 熟達化という観点からわざ言語を見る


第二章 熟達化の視点から捉える「わざ言語」の作用
第二章はわざを教わる側から見ての考察だ。例によって、目次をみてみよう。

1.スキル獲得と「わざ」の習得
2.熟達化から捉える「わざ言語」
3.フロー体験から捉える「わざ言語」

まず、学ぶ側から見て、「スキル」と「わざ」とはどのような違いがあるのか、という点での考察が行われる。単純化してしまえば、「誰かから学ぶ」ということは「ある場における情報のやりとり」となるが、北村氏は「わざ」ではその情報のもつ意味の考察が行われなければならない、とする。そうすると、単純なスキル獲得とわざの習得では、次のような違いが現れる。

この図を見れば明らかなように、スキル習得で求められるのは「効率性」であり、わざ習得では「意味内容の質」となる。ただ、ここではまだ、どのような意味内容を得ることができれば質が高いのか、は見えてきていない。


続いて、本章のメイン・トピックである「熟達化」に進む。ここでは大きく「熟達化体験の構成要素」と「熟達者の知識の扱い方」に分けられる。その前に、本章で取り上げられる熟達者についてもう少し丁寧に解説が加えられている。

熟達者には二種類ある、とよく言われる。
1.手際のよい熟達者
2.適応的熟達者
1はどちらかと言えば、前述の「スキル習得」を十分行った熟達者というイメージ。与えられた手順を手際よくこなす。一方2は本章で取り上げる熟達者の像である。場面場面で最適なやり方を選択する。そうしているうちに独創的なやり方に発展することもある。1を「職人」、2を「名人」と称することもできる。

2についてさらに突っ込んでみると、単に与えられた手順をこなすのにとどまらず、自分の興味関心に応じて熟達化を深化させ、新たな熟達の展開を行う。そこで必要になるのが、
 ・探索:よりよい解をもとめて工夫をし、その効果を確かめる
 ・熟考:自己の状態を絶えずモニターして、適応的に調整する
の二つである。これはこれで納得するのだが、この直後に熟達化体験の構成要素が紹介されている。その中には「探索的思考」という項目が入っているなどダブりもあるので、このあたりはもう少し整理した方がよいような気がする。

続いて、熟達化体験はどのような要素からなるかが紹介されている。細かい部分は本書の43ページをご覧いただくとして、大項目としては、
・没入状態:その世界に入り込むこと
・継続的専心:継続的に向上に向けた努力を続けること
・探索的思考:自分の能力をより高めようとすること
からなる。
このあたりは、インタビューをもとにまとめられただけあって、納得感がある。


そして、熟達者は知識とどのような付き合い方をしているのかが、ブランクフォールド他の研究をもとに解説が行われている。

熟達者の知識に関する原則
1.熟達者は、初心者が気付かないような情報の特徴や有意味なパターンに気付く
2.熟達者は、課題内容に関する多量の知識を獲得しており、それらの知識は課題に関する深い理解を反映する様式で体制化されている
3.熟達者の知識は、個々ばらばらの事実や命題に還元できるものではなく、ある特定の文脈の中で活用されるものである。すなわち、熟達者の知識は、ある特定の状況に「条件づけられた」ものである
4.熟達者はほとんど注意を向けることなく、知識の重要な側面をスムーズに検索することができる
5.熟達者は自分が専門とする分野について深く理解しているが、それを他者にうまく教えることができるとは限らない
6.熟達者が新規な状況に取り組む際の柔軟性には、さまざまなレベルがある

例によって、それぞれ見てみよう。
1については、具体的にどんな情報の特徴や有意味なパターンに気付いているのかが知りたい。本書では、その一つとして「うまくいったときの感覚」に着目している。こういうtaskレベルではなく、achievementレベルでの知識や情報に有意味なパターンがあることに気付くことはかなり重要だろう。実際に、何か行っていても、初心者レベルでは個別のtaskがうまくいくか、どうやればいいかに目が向きがちだが、熟達していくにつて、achievementレベルに目が向くようになる。Achievementレベルの情報や知識そのものに注意がいったり、そこに有意味なパターンがあることに気付くのはとても重要だ。

2について、本書は「知識が体系化されている」と簡単に書いているが、それ以前の「多量の知識を獲得」というところも同様に重要だろう。熟達者になるには、前提として当該分野におけるある程度の知識はもっておかなければならない。不十分な知識が体系化されていても熟達者にとっては意味のないものだろう。

3の文脈依存性は、本書ではAchievementのイメージとのひもづけという意味だろうか。ただ、それでは1とほぼ同じような話になってしまうが。

4については、本書では検索性というところ以上に、「ほとんど注意を向けることなく」という点に注目している。わざを極めた人というと、普通の人ができないところを無意識にできるように感じ、そのような状態になることを目指そうとするが、実際には自分なりに意識していると本書は指摘している(「きわめて意識的に操作された自動化」51ページ)。これはなるほどである。おそらく手際のよい熟達者ならば無意識に自動化されるとよいのだろうが、適応的熟達者はより高い次元へ進みたいという欲求がある。そうなると、自動化してしまうところもさらに改善できると考える。そのためには、自動化しているところも無意識化してしまうのではなく、意識して自動的に動くよう操作するという感覚が必要なのだろう。

5について、本書では「わざ言語」との関連で説明している。熟達者が教えることができるのではない、だからわざ言語が必要になる、という流れだ。ここでもわざ言語はtaskではなくachievementのことであることが見えてくる。自分と同じことができるように教えても熟達しない。だから、うまくいった感覚の共有をすることが熟達への道となる。その媒介をするのがわざ言語、というわけだ。

6は、前述の適応的熟達者のもつ「探索」の話とほぼ同じだろう。その意味で、探索を仕向けるような言葉がわざ言語にもなりうる、という示唆が本書では行われている。ただ、Achievementを伝えるわざ言語とは、少し性質が異なるように感じる。


本書では、こうした考察を踏まえて、熟達者の知識に関する原則から得られる「わざ言語」の示唆を6点あげている。
1.「わざ言語」は、熟達化の過程で本人が「こういうことかな」、「いい感じだな」と気付くための態度や、気付くことができるような状態に導く手がかりを与える。
2.「わざ言語」は、直接的に問題解決を導くのではなく、問題解決の核を導く。
3.「わざ言語」は、必然性をもつ文脈の中で用いられるものである。その文脈とは当人が求める感覚の状態によって想定される。
4.「わざ言語」は、段階を経る中で、自動的な段階へと導く作用力をもつ。ただし、それは単なる自動化された動きを意味するのではなく、感覚が管理された、感覚が上乗せされた自動的な動きを意味する。
5.「わざ言語」は、受け止める人の状態や体験等によって作用力が異なる。したがって、わざを教え学ぶ場では、感覚の共有が重要な意味をもつ。
6.「わざ言語」によって導かれる状態は、最終到達形としてあるのではなく、さらなる洗練が目指される状態である。わざの探究と熟考は継続的に行われていく。

この示唆からさらに得られる示唆?をまとめると、次の3点になるだろう。

示唆1.必ずしもわざ言語でわざができるようになるわけではない。
まあ、当たり前と言ってしまえば当たり前であるが、あまりわざ言語に過度な期待をかけてはいけない。特に、「クリアしなければならないTask」に対して、わざ言語は大きな効果を発揮するわけではない。おそらく、この点に対する誤解から、「わざは体験によって習得できるもので、説明して何とかなるのではない」という主張にもつながっていくのだろう。
わざ言語は、目の前の課題ではなく、より長いスパンでの目標に対して有益である。

示唆2.わざ言語は「媒介」である
わざ言語は目の前の課題をクリアするためのものでなく、長期的な観点で見た目標達成のためのものだとすれば、その本質は何か。それを一言で言えば、「気づきを得るための媒介」になる。
達成すべき目標は明確に与えられない(仮に与えられたとしても、それがどういうものかは人によって異なる)。ではどうやって目標を意識させるかと言えば、それは本人の気づきでしかない。わざ言語は、そうした気づきの媒介となるようなものである。

示唆3.わざ言語は関係性の中で効果が決まる
となると、人によって気づきのレベルが違うのだから、効果を発揮する場合もあればそうでない場合もある。その違いは、「関係性」にある。わざを習得する文脈とわざ言語との関係性、わざを学ぶ側の状態や体験とわざ言語との関係性。こうしたものにより、同じ言葉で伝えても気づきになる場合もそうでない場合もある。


ここまで来ると、結構ビジネスなどどのような場面でも、指導の際に通用する話になってくる。まず、私たちはどうしても個々のタスクを説明して、それをできるようにしようとするが、そうすると同時に、どのような姿を求めているのかを伝える必要がある。ただ、それを単に押し付けるのではなく、学ぶ側の気づきになるような伝え方が必要だ。そして、同じフレーズを使えば誰でも同様の気づきを得るのではなく、教えている場や学ぶ側との関係によって変わるので、どのようなフレーズを使えば気づくのかには十分なケアが必要になる。こんなところだろうか。


なお、本章最後のフローと熟達化の部分は、正直あまり見るところがない。フロー体験の説明と、熟達化の過程でフロー体験があるということが書かれている程度で、それ以上突っ込んだ考察が見られなかった。
そして、第三章へ進む。